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#64 こんなことがあった(初釜の苦い記憶)

大学院進学に際して、「これ以上生意気になっても困る」ということで、丁度母が距離を置きたがっていた茶道教室(公民館での教室)に通うことを条件に示された。未だに女性が大学院に進学することには否定的な空気があったので、行かせてくれるならそれぐらいお安いことだとその条件を呑んだ。

茶道教室の先生は、夫の女癖その他で家を追い出されたりするなどの苦労をされていたが、戦前の堺のお嬢さんそのものという感じで、娘時代から茶道一筋でやってきた人だった。いわゆるお笑い番組や吉本の人たちの話し方とは全くちがう、やわらかな大阪弁は素敵だった。

私が通い始めた頃は脳梗塞から立ち直った後で、お弟子さんもかなり減った頃だった。先生にとっては不本意な日々だったと思うが、その分、時間をかけて指導をしてくれたような気がするし、子供向けの茶道教室のアシスタントを任せてもらったり、その後にまさに問わず語りのような感じでいろいろな話をしてくれた。年配の人のお話を聞くのは好きなので、稽古そのものよりもその後のお話の方を楽しんでいた。

学生の身分ということで、やたらお金がかかる免状については無理をしなくていいという方針だったので、裏千家の許状・資格についてによれば、「初級」「中級」あたりまでだったような気もする。

手先が器用ではないので自分の稽古は緊張したし、「おうち、目が悪いの?」と先生から言われることもたびたびあったが(実際に目は悪いがそれよりも不器用)、他のお弟子さんが難しそうな稽古をつけてもらっているのを見るのは何かと面白かった。自分より知識がある人の話を聞くのは私にとってはとても楽しいことだったし、お茶の教室は午前中だけだったにもかかわらず、夕方までひきとめられることもあった。

そういう感じなので、ダブルバインド的な指示をよくしていた母からは、「あんた、仕事もちゃんと決まっていないのに、なにをふらふらお茶をしているん?いい加減にし。」と非難されることもあった。そもそも自分がそのお茶の教室から距離をおくかわりに私を差し出し、私にそこに通えといったのは母なのだが、そういうどっちの指示に従うべきか悩むようなことは母とのつきあいでは日常的だった。

お茶の先生とお弟子さんたちの話は機会があればまた別にまとめたいと思う。

ある時、お茶の先生方を対象とする初釜の招待券を先生から頂戴した。「勉強になるから、一度行っておいで」という感じで2人分。帰宅して母に見せると、いい機会だから行ってきなさい、私はちょっと気後れするので、知人の〇〇さん(母の知人、息子さんが私と小学校の時の同級生なので小学生のころから私を知っている人)に声をかけてみるわ。良かったら一緒に行ってきなさい。ということを言い、私はその〇〇さんと一緒に初釜に行くことになった。

〇〇さんは、私と同級生だった息子さんが中学校以降に問題児となって(家庭内暴力とかも含む)苦労されていたが、天王寺にマンション物件を持っている程度の資産家で、裁縫をはじめ手先が器用、茶道についても先生でしょうか、という感じの美しいお点前をする品の良い人だった。ただし、表現が難しいが、何か困ったことになると自分の保身を優先して困っている人に手を差し伸べることはないな、という感じの人でもあった。この人柄みたいなものがこれから話すことにも関係する。

さて、場所はもう忘れてしまったが、多分、大阪市内の料亭みたいな会場に行き、受付で招待券を渡すと、「じゃ、袱紗以外の荷物は風呂敷に包んでこちらに置いて下さい。」と言われた。

「風呂敷?」
そんなものは持っていない。
受付近くで荷物整理をてきぱきと行っていた人にその旨伝えると、「はあ?」となんて非常識なのというような呆れた表情をされて、「だったらそのコートで荷物を包んでください。」と邪険な感じで言われたので、お出かけ用のコートで荷物を包んでその人に渡した。なお、同行してくれた〇〇さんは当然のように風呂敷でコンパクトにまとめた荷物を包んでその人に渡していて、その時の担当者が私と〇〇さんと見比べた時の目つきをまだ私は覚えている。

恥ずかしくて、惨めで、その場を立ち去りたかった。
ただし、親の代わりに来てくれた〇〇さんを置いて帰ることはできるわけがないので、先生方が参加する初釜ってどういうものだろうかという期待感がプラスから一気にマイナスになったまま、待合室(数十人でまとめて対応するため、和室に数十人が詰め込まれている感じ。)からお薄のお点前そのほかを流れ作業的に体験して、再び受付でコートに包んだ荷物を惨めな気持ちで受け取って、しかしそんなこと全く感じていません、鈍感なのでといったふりをして〇〇さんと帰宅した。

多分、床の間の飾り物などは凝っていたのだと思うが、受付の段階で早く帰りたいと思ってしまったので、記憶に残るものはほとんどない。ただし、ああいう初釜なら行く必要はないなと思ったことは覚えている。

勿論わかっている。茶道教室の先生方向けの招待で、お茶席を数多くこなしており、そういう場での振舞を熟知している人がほとんどなので、受付で荷物を風呂敷に包んで預ける(ホテルでの宴会でコートなどをクロークに預ける感じ。但し各人が風呂敷で荷物をまとめることが前提であることがホテルなどとは異なる。)ことを含んだこれは当然です、ということを知らなかった若輩者で無作法な私がその場に相応しくなかったこと、私側に問題があったことは明らかであることはわかっている。

ただ、嫁入り修行よろしくお茶やお花を短大を卒業してしばらくの腰かけ的な仕事の帰りに習っていて、その後も時折お茶をならったりしており、当然嫁入りに際して着物一式を親に準備してもらっているなど、お嬢さんとしての扱いを親から受けていた母、そして、母が一目置いていた程度に茶道教室やお茶席での振舞が素敵だった〇〇さん、その二人が、小学生時代から人となりを知っている子で、お茶席にはあまり詳しくないだろうということも知っているにもかかわらず、そこそこ気を張るところの初釜に初めて参加する私に、初歩的な注意すらしてくれなかったことがとても惨めだった。娘に本当に気を配ってくれる母だったら、事前に注意をしてくれたのではないかと思った。

親から丁寧に教えてもらうことはないが、教えてもらわなくてもできて当たり前。できないとお前が悪いと非難される、そういった扱いには慣れていたはずだけれど、それでも時々期待しては惨めになることのくり返しが、親と距離を置くまで続いていた。

また、受付できつい言い方をされた私に、弁護の余地すらないほどひどかったのかもしれないけれど、ひとことも言葉添えをせず、しかし自分はその場での優等生の振舞をしてにこやかにしている様をみて、母だけではなく母の知人にも改めてぞっとした。

この人たちは、自分が評価されるためには相手を貶める、あるいは相手のミスをフォローしないことで自分が評価されることを選ぶ人たちだったのだ、と思った。

勿論、一期一会や和敬清寂、もてなしの心を大事にするらしい茶道についても、「もう、いいかな」と思ったひとつのきっかけになった。素晴らしい人はたくさんいるだろうし、学ぶことでどのような場所においても如才ない立ち居振る舞いができるようになった方が良いのだろうけれど、そういうのは目指さなくてもいいかなと思った。つまり、その場の雰囲気を敢えて壊すようなことはしないけれど、無作法者でいいかな、と言う感じ。

ただし、圧倒的な惨めな記憶とともに学んだので、荷物全てを包むほどのものではないが、仕事鞄に風呂敷は一枚入れている。そういう風に痛い失敗で学ぶことはあるので、その意味ではあの苦々しい初釜には感謝している。

そうして、それから数十年が経過して、中年となった私は、社会経験が足りていない若い人に対しては、いろいろ注意をするお節介を焼いてしまうのであった。