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見えない世界・闇の力⑴:無意識の大衆と選ばれし者

これも長いこと温めてきたとっておきのネタであるが、手放してしまおう。だけど、そのまま書くと専門バカの独り言にしか見えないだろうから、迂遠なようだが外堀から少しずつ埋めていこう。

自分は世間と異なる時間の流れに生きている人間であるが、娘を通じて今どきの若者(だけじゃなく相当年配の方も含まれるようであるが)の好むマンガやアニメに接する機会がある。で、前から少し気になっていることがある。

多くの話は、若い人たちが唯一よく知っている「世間」、つまり学園を舞台としている。だが、その学園生活が実は地下世界なり異次元の世界に侵食されており、日常に起ることはそこからやってくる目に見えない力によって影響を受けている。だが、大多数はそれに気づいていない。ごく少数の選ばれたものだけがこの異世界の秘密を知っており、此岸の平和に浸っているバカどもになりかわって重荷を一身に背負う英雄となる。だが、それは知られざる英雄なんであり、大多数のバカにとっては英雄はむしろ平均かそれ以下の人間にすぎんのである。

ここに日常バカにされている者たちのルサンチマンや願望が見え隠れするんだが、光に照らされた世界が表面的なものであり、その奥深い暗いところに何か目に見えない力がうごめいているという構図自体は新しいものではない。児童文学などではおなじみのテーマであるし、文学に縁のない人にとってもジブリ映画などを通じて親しまれているものである。

自分などが覚えているのは、スーザン・クーパーという人の「闇との闘い」シリーズというファンタジー小説である。イギリスの普通の少年少女たちの世界がアーサー王伝説の世界に重なっていく。親や友だちがきわめて散文的に暮らしているその横で、いたいけな子どもたちが宇宙の運命を決する壮絶なコズミック・ウォーに巻きこまれていく。自分もまさしくこの闘いに参加する資格があるように思えるのに、こんな辺境の国に生まれたがために遠くから眺めているしかないのが非常に口惜しかった。ハリー・ポッターの世界などに惹かれる子供たちもまた、同じような感覚を抱いているのではないかと思う。

これだけなら微笑ましいのであるが、これに関連して、もう一つ自分が気にしている最近の流行は陰謀論である。それとファンタジーと何の関係があるのかというと、その構造が驚くほど互いに似ているのである。つまり、この世界の出来事は目に見えない闇の勢力により操られている。しかし、大多数はそれに気づいていない。ここに少数の選ばれた者たちがいて、世界を守るために献身的に立ち上がる。目に見えない悪、多数のバカ、そして選ばれし英雄。この三位一体はファンタジーにも陰謀論にも共通なんである。

この陰謀論も決して新しくない。かつてはフリーメーソンやユダヤ人の陰謀説が猛威を振るったこともある。今日でも、社会の悪を特定の弱者やマイノリティに帰そうという輩が増えているように見える。こうした人たちはかつての偏執狂的な人々の末裔でもあるし、またファンタジー好きの人たちの親戚でもあるわけである。ファンタジーとヘイトスピーチを同列に扱うのは不倫かも知れないが、ファンタジーをファンタジーとして楽しむにはクソまじめすぎる人たちが書いたヘボな詩や小説が陰謀論である。そう言ってもよいかもしれない。

目に見える世界と並行して存在する異世界、見えないところで作用している闇の力という考えは相当古いもので、恐らく人類が宗教をもつようになってから常にわれわれとともにあった。実際に、人類が培った風俗や習慣の大半は、この目に見えない世界からやってくる力に対処するために作られたのである。そして、そうした超自然的な力に向き合う特別な階級が生まれ、経済力とは異なる権力の源泉としての知を独占する選ばれし者となった。この裏の世界、不可視の力などという考えが否定されるのはようやく近代社会においてであり、18世紀の西欧における啓蒙思想と呼ばれる知的潮流においてであった。

啓蒙思想というのは決まった定義を与えるにはあまりに多様なのであるが、この話に関連するかぎりでは次のような特徴をもつと言える。まず、啓蒙思想は目に見えない世界の存在を否定しないまでも、無意味なものとして退ける。なぜ無意味かというと、人間が知りえないものには有効に働きかけることはできないから、そんなものはあってもなくても同じなのである。答えのない問題はそもそも問題ではないというのが啓蒙思想の一つの命題である。

だから、啓蒙思想は、事物の本性を目に見える(つまり人間の五感で感知できるかぎりの)世界で観察される事象から取り出してくる。そうした事物の本性は、誰にでも可能な方法で見つけだすことができなければならないし、誰にでもわかる言葉で叙述し伝達することができなければならない。だから、真理を司る選ばれし者はもはや必要ない。真理であればバカにでもわかるものでなければならないし、バカにわからないものはもはや真理ではない(もちろん、適切に思考する訓練を受けた者が適切に情報を伝達されるという前提である)。これが知にまつわる密教的特権を打破し、恐るべき民主化効果を挙げることになった(知や教養の格差が減った分、経済的格差の政治への影響は余計に強まるのであるが)。

おバカなわれわれには、この啓蒙思想はあまりに楽観にすぎるのではないかと思われるのであるが、18世紀の科学の成功はこれにある程度の現実性を与えたのである。驚くべきことに、われわれの宇宙における数限りなく多様な現象のかなり部分が、比較的少数の定理や原則によって説明できることが明らかになった。典型的なのはニュートンの万有引力の法則で、物体の間にお互いに引きつけ合う力が働くという単純な原理から、リンゴの落下から天体の運動までが説明できてしまう。この確実な知を基盤として科学が進歩して、世界の闇が光に照らされていくのならば、鬼神の力などを想定する必要がどこにあるか。

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