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私と手まり

#手まり #自己紹介 #プロフィール #私のハンドメイドストーリー #私の仕事


手まり職人をしています。
本人は、作家では無いと思っています。
なぜなら、伝統のデザインをなぞるのが仕事です。
作家は、まだ見たことがないデザインを作るのが仕事と思っているからです。




手まりに出会った日と、祖母の思い出


私が初めて手まりに出会ったのが、小学校入学する頃でした。
祖母が営んでいた金物店を閉めて、その後、手まりを作り始めたそうです。
そして作った物のいくつかを、送ってくれたのです。
頂いた手まりは5-6個あったように思うのですが、はっきり覚えているのは1つだけです。

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上の手まりは、その時に見たものを思い出しながら作りました。
一番大きくて、少し三角で、目立っていました。


この時の手まりは、母に没収されてしまい、母が他界した後ようやく手に取ることが出来ました。
幼い日、母に手まりを取られてしまい、感情的にはいろいろあります。
でも、母が保管してくれたから、現在も私の手元に祖母の手まりが残っています。


その後、祖母の手まりは母がいくつか貰った物をありますので、しかるべき数残っています。

2021年1月11日追記

2020年の暮れにアトリエの引っ越しをしました。
収納の都合もあり、祖母や母の手まりを手放す決心をしました。
別ページにて写真を順次公開しようと考えています。
見ていただければ大変嬉しいです。



母は祖母の手まりを見て、毎年夏休みに実家へ帰るたびに、祖母から習っていました。
祖母は、数冊の手まりの本を持っていました。
母も祖母の持っていた本を、書店にオーダーして買っていました。


ある夏の日、祖母のところへお友達の方が来ました。
2人で本を見ながら、お友達の方が言いました。
「今度、これを作りたいのだけれども、研究して私に教えてください」


私は黙って聞いていましたが、まだ幼かったので意味が通じていませんでした。
でも今、思い出すと、なんか可笑しくなります。
一緒に暮らしている伯母に話しましたら、それは**さんでしょう。
いつも本や糸を持ってきてくれる人だから、気にしなくてよいのです。
と話してくれました。


母から初めて手まりを習った日


母は教員をしていました。
小学校の時は6年間、母と同じ学校でした。
小学校4年生の時、母のところへ折り紙クラブのメンバーが来ました。


急きょ、折り紙と手まりの講座が始まりました。
私は折り紙クラブでは無かったのですが、同級生が大勢来ていたので一緒に参加しました。


その時レッスンした折り紙が傘でした。



同じ日だったのか、それとも別の日に行ったのかは覚えていません。
しかし、ほぼ同時期に手まりの講座も開かれました。
土台作りはせずに、8等分の組み合わせ地割(じわり)から升かがりをしました。


私は地割で挫折し、母に作ってもらいました。
そして模様をかがる段階でも挫折し、この時は手まりを完成させる事ができませんでした。
同級生の何人かは、作品を完成させた人もいます。


その結果、長い間、この時に挫折したデザインを作ることができませんでした。
先日ようやく、当時のデザインを作ってみる気になり作りました。

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私は小学生の時、手まりを作る事が出来ず、母も非常に長い時間をかけて1個の作品を仕上げていました。
そんな母を見て、私には手まりは不向きと思っていました。
なぜなら、1個の作品に何カ月もかかるような物、私は完成する前に飽きてしまうのです。
作業がそれなりに進行した実感がないと、飽きるのです。


再び手まりを作ってみようと思った日


中学生になったある夏、祖母が母に1つの手まりを見せていました。
母は、これは簡単にできると作っていました。
その時のデザインが、黒地の飴玉の手まりでした。

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その時、この手まりなら地割に挫折した私でも作れる!
そう思ったのです。
そして作ってみた作品が白地の飴玉でした。

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今思えば、十分に材料が揃えられず、散々な出来栄えの物でした。
土台はビニールテープを刻んで、ビニール袋に入れて作りました。
表面の色を整えるのにティッシュを巻きました。
仕上げの糸はロウ引きのミシン糸だったので、滑って非常に巻きにくかったのです。
それでも何とか、それらしい物が出来上がりました。


手まりは、その後気まぐれに作ることはあっても、それほど本格的に作ろうとは思いませんでした。
やはり母が非常に長い時間、作品に費やしていたので、私には不向きと思っていたからです。


中学、高校時代は洋裁をメインに勉強していました。
と言っても、高校は家から一番近いという理由だけで選んだ商業高校です。
当時の私服はすべて、自分で縫っていました。
理由が、着たいと思う服はお値段が高くて買えなかったからです。
当時の私のテキストは、装苑でした。
時々、母の服を仕立ててくださる洋裁屋さんが、アドバイスをくれました。


高校卒業後は、家からなるべく遠い場所という理由で、奈良の和裁の専門学校へ行きます。
和裁を選んだ理由が、洋裁よりお金になるよ、というある方の一言でした。
しかし、学校と合わず半年で帰ってきました。


和裁を続けたくて、家から通える学校へ再度通学しました。
和裁を習いながら、刺しゅう、編み物、小物作り、針と糸に関係する物は、ほぼチャレンジしました。
今、経験の無い物を探したら、日本刺繍と織物が未経験だったと気付きました。


きちんと手まりを覚えようと思った時


結婚し、出産し、その時いろいろあったために、母とは一時絶縁状態でした。
ある方に、母の様子がおかしいから、見に行くようにと言われました。


そしてある年の4月半ば、病院から話がしたいと連絡が来ます。
癌のため、母の命の終わりが近いことを知ります。


その時、私は今まで避けてきた手まりを、きちんと習おうと決心します。
全国的に見たら、母よりすごい作品を作る方はたくさん居ました。
でも、伊豆では母が一番だったのです。
今、母から習わないと機会を失ってしまう。
そう思い、手まりを覚えることにしました。


でも、素直になれない娘でした。
教えてと言う事が出来ず
「一番簡単な本を貸して」
そう母に言いました。


母は
「あんた、本で作れると思っているの!?」
「思っているの」
こう答える私。


母は、本を貸してくれました。
そして、次回合う時に裁縫箱を持ってくるように言います。
私は借りた本をもとに、会うたびに作品を作って持って行きました。
本を見て作れるといった手前、出来るよ!と言いたかったのです。


それでも、初級の作品、いくつかは母からレッスンを受けることが出来ました。
しかし、その後の作品は、残念ながら時間が残されていませんでした。


手元に残されたのは、膨大なメモとノートの数です。
昔は写真も、コピーも非常にお値段が高かったのです。
そのため、技術を身につけようと思った時、ノートに記録を残すことしか出来ませんでした。
本を1冊すべて書き写すのも当たり前に行われていました。


祖母のノートは、祖母が制作をしながら作った物なのか?それとも本を書き写した物なのかわかりません。
母のノートは色に関する物が多いので、作りながらメモをした物が多いように感じます。


私はこれまで、母と祖母が残した作品とノートを元に制作をしてきました。
後になって、この作品は、この本に載っていたと気付くことも多いです。
その為、出来上がり写真から作品を複製することも多いのです。


私には作品とノートが残されましたが、昔の人のレッスンを聞いた事があります。
自分が作った作品を、師匠のところへ持っていきます。
師匠はそれを見て、次にこれを作りなさいと弟子に作品を渡すのです。
作り方など一切無く、その作品のコピーを作るのがレッスンになります。


note で公開


所定の年齢になり、作品もそれなりに作ってきた者の務めとして、後継者の育成があると思います。
昔はお年寄りの中でそれなりの割合、手まりを作る方が居ました。
しかし、時代が変わり、針仕事を好む人が激減しました。


カルチャー教室も良いですが、遠かったりその他の事情で通えない人も多いと思います。
ネットでの講座であれば、誰でも簡単にレッスンを受けることが出来ると思います。
実際に会ってレッスンがしにくい分、私の解説は細かく写真を撮っています。
note では気楽に、低価格でレッスンが受けられるようにしています。


習いたい模様だけ選ぶのも自由です。
お気軽にご参加ください。

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自己紹介

読んでいただきありがとうございます。 アトリエを無事引っ越すことが出来ましたが、什器等まだまだ必要です。 その為の諸費用にあてさせていただきます。