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「自由度」に縛られたプレイヤーたちに告ぐ

最近のゲームはすごい。
昔の「なんかよく分からんピコピコしたやつ」といったイメージはもう過去の彼方に置き去りにされ、最近のゲーム表現は、「え、これ映画?」と言わせるようなド迫力かつ美麗な映像表現が主流になりつつある。

その中で、気になるワードがある。
自由度」である。

最近のゲーマーは口を開けば「自由度が高い」とか「自由度に乏しい」とか言う。
なるほど彼らはゲーム中で「なんでもできる」自由を求めているようだ。
例えば窃盗、殺人、交通ルールの無視、脱獄……

ん?それ、自由度ではなくて犯罪度では?

高まる「自由度」

なるほど、実際、最近のオープンワールドゲームは自由度がすごい。
善行をするのも良いし、悪行をするのも良い。
自警団のように悪人を取り締まるのも、自ら盗賊のような行いをするのも、なんでもできる。これはよい。人生のシミュレーターとして優秀だ。来世に生まれ変わる前にGTA5でもプレイしておこう。

でも敢えて言いたい。
それって本当に自由度か?

そもそも、彼らは何を持って自由度が高いというのだろう。
目に見える遥か彼方の山々へ分け入ることが出来たから?
そこいらの通行人を銃で脅して強盗することができたから?
なんならストーリー中の重要キャラクターさえ殺害することができるから?

完璧に自由にするのであれば、最高のシミュレーターがある。
人生」っていうんだけど、知ってる?
基本プレイ無料で、1Playにかかる時間は年単位、∞FPSで描写される美麗かつ"リアル"な世界観は、山あり谷ありのプレイ環境を演出してくれる、没入度最強の廃人養成ゲームだよ!

……冗談にもなりはしない。
そもそもゲームとは、現実ではできないことをしたいがためにやるものではなかったか?
だからドラゴンクエストやFFなどのRPGゲームは流行ったし、なんならどうぶつの森などのスローライフ満喫ゲームもゲームとして成り立っている。

じゃあ、どうぶつの森で住人を虐殺しまくれるModが開発されたら、それは自由度が高いと言っても良いのだろうか?
動物たちを虐殺したいと思うシリアルキラーがいてもいいはずである。世の中はいつも平和なだけではない。ある日突然日常が崩れ去ることもある。
その非日常の体現者として動物たちの平和な生活を脅かしに行くのもまた、「自由度」ではないだろうか?

しかし「どうぶつの森」では住人の動物たちを斧で殺し回れない!こんなの自由度が低い証拠だ!といって暴れまわる狂人を私は見たことがない。
当然である、プレイヤーがそれを求めていないのだから。

逆に言おう、例えばバイオハザードにアップデートパッチで「例えゾンビになったとしても、元々が人間なのであれば、彼らの理性に語りかければ、きっと応答するものは出るはずである!」と心の底から信じてゾンビを説得するモード(もしくはコマンド)が搭載されたら、どうなるだろうか?
あぁ!こんな世界でも救いを求め続ける儚い人間の希望と、その散り様をプレイヤーに追体験させる素晴らしいゲームだ!」と評価されるだろうか?

おそらくそうはならないだろう。steamのストアページの評価は「とても好評」から「賛否両論」もしかすると「とても不評」にまで落ちてしまい、きっと運営のアップデートの無能さを罵るレビューが高評価を集めることになる。
これもまた、「プレイヤーがそういうことを望んでいないから」評価されないのである。

「自由」でありたい願望

つまり、我々がいう「自由度」とは、ある程度の形を持った願望なのだ。
「どれだけ自由に行動できるか」ではなくて、「どれだけ自分の思い通りにキャラクタを動かすことができるか」なのである。
極端な話、ある面から見るとびっくりするくらい不自由なゲームでも、別の面から見ると自由も自由であったりする。
先述したような組み合わせがそうである。
どうぶつの森のプレイヤーは、動物たちとの血で血を洗うサバイバルウォーズを望んではいない。

となると、自由度の高いゲームと評価されているゲームも実は自由度が高くなかったりもするかもしれない。
例えばウィッチャー3の主人公、リヴィアのゲラルトはあくまで魔物退治の専門家、ウィッチャーである。
彼がウィッチャーを恒久的に廃業して、農家として暮らし続けることになったとしたら、それは果たして「自由」だろうか?
いきなり遠い未来からタイムマシンが乗り込んできてゲラルトを浚い、未来の地で孤独に魔法を駆使して戦い続ける展開が出たら「不測の事態も想定された大変自由なゲームだ!!」となるか?ならない。

人は、与えられた文脈の上でしか生きることが出来ない。
ゲームに関してもそうで、ゲームを自由に遊んでいると思っているプレイヤーは、その実、メーカーの想定した「自由」な箱庭の中で暴れまわっているに過ぎない。
メーカーがプレイヤーの欲求を100%満たしきれなかった場合に「このゲームは自由度が低い」と言われてしまうのである。
彼らは何が「自由」なのかを自覚していないというのに。

だから、自由度が高いと言われるゲームはいつも何かに一点集中したゲームだ。
逆にFF15などのRPGゲームは自由度が低いと言われがちである。
あのゲームは車などに問題があったとしても、RPGゲームは道筋が決まっているのに、その中でどれだけ「自由」にプレイヤーを動かすかどうかのさじ加減が難しいからである。すくい取るべき対象も多すぎる。
ウィッチャー3はまさに奇跡の産物だったと言えるだろう。

先日私がレビューしたFF7Rだって、自由度という点では低い。
クラウドは大剣を背負っているというのに、厄介なことを言い出す街の人々をバスターソードで脅したりはしない。脅すコマンドも用意されていない。
これは、クラウド・ストライフというキャラクタが、そのような行動をしないためである。
いくらプレイヤーと言えども、ゲーム体験のためならシナリオに逆らうことは出来ない。それこそフィーラーが邪魔をする。

ではFF7Rは駄作か?
チョコボに乗って人々を轢き殺せないから、魔物を引き連れて町へ帰り、人々が逃げ惑う様子を観察できないから駄作なのだろうか?
そうではない、ゲームの真髄はそこにはないだろう
RPGの戦うべき土俵はそこではない。
RPGはどれだけプレイヤーが役割に没入できるか、ロールプレイできるのかが重要なのであって、それ以外は些末な要素なのではなかったか?

最近のオープンワールドゲームを見ると、どのレビューにも「自由度が〜」ということが書いてある。
自由度が低いから低評価という人さえいる。
しかし、低評価ボタンを押す前に一度考えてみてほしい。
「自分のゲームの評価基準は、このゲームを正当に評価したものだろうか?」
「自由度」に縛られた不自由なプレイヤーには、次世代のゲームは早すぎるのかもしれない。


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