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コービー・ブライアン

 前回のNBAつながりで、2020年1月26日に亡くなった、元NBAプレイヤーのコービー・ブライアンについて書いてみたい。

 LAレイカーズのコービー・ブライアンを知らない人はまずいない。

 コービー・ブライアンは1978年生まれ、フィラデルフィア出身だ。
 1996年、高校を卒業すると17歳でNBAに入団、大好きなLAレイカーズで20シリーズ、20年間プレイし続け、2016年に引退した。
 その間、彼が残した記録はすさまじい。
 NBAチャンピオンシップ優勝5回。
 ファイナルMVPを2度獲得。
 シーズンMVPを1度受賞。
 通算得点歴代4位(33643得点)。
 オールスターゲーム連続出場18回(先発出場15回)。
 2008年、2012年のサマーオリンピック出場、その2度のオリンピックで金メダル獲得に加え、史上最年少記録、史上最年長記録を持つ。 
 最後の数年は、怪我に悩まされたけれど、20年間である。
 彼は肉体が限界に達する最後の最後まで、レイカーズのトッププレイヤーとしてコートに立ち続けた。

 現役時代にコービーがつけた8と24の背番号から、LAは、8月24日をコービー・ブライアン・デーに制定した。
 彼はLAの象徴的存在だった。
 コービーの世代がマイケル・ジョーダンに憧れたように、現在活躍するNBAプレイヤーにとって、コービーはヒーロー、レジェンドだった。
 彼は、誰よりもバスケットボールを愛し、誰よりも努力し、真摯に、誠実にバスケットボールと向き合い続けた選手だった。

 コービーがバスケットボールに夢中になったのは、6歳のときだ。
 ちょうど、コービーの父親ジョー・ブライアンが、NBAを引退し、イタリアのチームに所属した頃だ。
 小さなコービーは、パパ・ジョーの練習や試合について行き、コートの中を走り周り、自分よりもずっと背の高い選手たちに1対1を挑んだ。
 家では、おじいちゃんが送ってくれる、レイカーズのビデオに夢中になった。

 イタリアからフィラデルフィアへ戻ったコービーは、高校のバスケットボールチームに入部、州の最優秀選手に選ばれるなど、実力とその才能を発揮した。
 彼は高校を卒業するとすぐにNBAへ入団する。
 マイケル・ジョーダンが引退する前に、対戦したかったからだ。 
 過去最年少、18歳でデビューしたコービーは、相手のディフェンスを翻弄させ、初戦で25ポイント獲得した。
 ルーキーイヤー、最後のユタ戦、セミファイナルのゲームでは、土壇場で、ミスを何度繰り返しても、決して怯むことなくシュートを打ち続けた。
 強靭な精神力、勝つことへの執念、根性を周囲に見せつけたゲームだった。

 彼の精神力は、弛まぬ努力に支えられていた。

 「午後から起き出して、3時から夕方まで練習する人もおれば、朝9時に起きて、10時から12時まで練習、ランチを食べて3時から5時まで練習する人もおる。
 でも朝5時に起きれば、朝食の後の6時から8時、休憩を入れて、ランチの前に2時間、昼寝しても、ディナーの前に2時間練習できる。
 これを1カ月間続けたら、その差はすごいよ」

 その言葉どおり、コービーは20年間、高校時代を入れるとそれ以上の期間、彼の時間のほとんどをトレーニングに費やした。

 試合の後もジムへ行った。
 オリンピックで海外に滞在している間も、コービーだけは毎日、ジムで練習していた。
 午後7時から始まる試合前も、汗だくになり、試合さながらの動きでトレーニングをした。
 また、ライバル選手と対戦するときは、試合の二週間前からビデオルームにこもり、徹底的に相手のことを研究した。

 「相手のクセや動き、そのすべてを知っておけば、例えはじめての対戦でも驚くことはない」
 「練習でも、試合でも、常にゲーム7(優勝が決まる試合)のつもりで全力で向き合う」

 どんなときも手を抜かず、勝負に対して誰よりもストイックだ。
 そして自分が至らなければ、その報いを受ける覚悟ができていた。
 そんな彼のメンタリティを示すエピソードがある。 

 チームメイトのブライアン・ショウは、自分が釣ったコザメの写真をコービーに送った。

 「そのサメ、どうするの?」
 「写真撮ったら海に戻すよ」
 「なんで海に戻すの?」
 「戻す以外に何があるねん?」
 「殺さなあかんやん。釣られたのはそのサメの失敗やから、そのサメは殺されるべきやろ。殺し」
 「・・・」

 勝負に言い訳は通用しない。
 それがコービー・ブライアンだ。

 そんなコービーは常にアグレッシヴだ。 
 対戦相手に氷のように冷たい視線を送り、意地の悪い顏で睨み、トラッシュトークで相手を挑発する。
 ファイティングに発展することもあった。
 マット・バーンズとのファイティングはよく知られている。
 コービーの継続的な挑発や、さりげない肘入れに、イライラしていたマットは、インバウンドパスを出すときに、コービーの顔に向かってボールをぶつけるフリをした。

 映像では、真正面にボールを出しているように見えるけれど、実は少しずれている。
 本人たちは、深刻に捉えていなかったけれど、周囲は大騒ぎになった。

 「コービーは瞬きひとつしなかった!!!」

 NBAヒストリーに残る、コービーストーリーだ。
 
 すでに6チャンピオンシップを勝ち取り、スーパースターと言われる存在だったマイケル・ジョーダンに対しても、彼は堂々と戦いを挑んだ。
 
 「俺、あなたと1対1できるよ」
 「君は俺のことを止められへんで」
 「そんなことないと思う。あなたが俺のこと止められへんのちゃう?」

 コービーが21歳の時だった。
 その一方で、コービーはジョーダンの動きを観察し、疑問があれば躊躇なく質問した。
 マイクが方向転換して、ジャンプシュートをするときのディフェンスの方法を、試合中に聞いたコービーに対し、マイクがきちんとアドヴァイスをした話は有名だ。
 マイクは、学びたい、勝ちたいというコービーの姿勢と努力、躊躇なく戦いを挑むコービーのキャラクターが好きだった。

 「俺に1対1で勝てるとしたらコービーしかおらん。彼は俺のプレイを完全にコピーしているからね」

 コービーがマイクから学んだのは動きだけではない。
 チームを結束させる方法、黒人トップアスリートとしての心構え、努力、忍耐、多くを学んだ。

 「設定した目標に向かって常に好奇心を持ち、探求心を失わず、失敗を恐れず、周囲の言葉に惑わされず、前進し、戦い続ける」

 コービーが確立したマンバ・メンタリティは、マイクの教えと、バスケットボールを通して彼自身が学んだことだ。
 「マンバ」は、狙った獲物は逃さない、世界で最も危険な猛毒蛇の一種で、コービーのニックネームだ。
 VINOというニックネームもあった。
 VINOはワインを示し、年齢を重ねるごとに素晴らしくなるという意味だ。

 コービーは止まることなく前進し続けた。
 けれども、ついに進めなくなる日が訪れる。
 2016年4月13日、彼は現役を引退した。

 「俺の心はまだどうにかできると言っているけれど、俺の体は別れるときがきたと言っている」

 6歳でバスケットボールにパッションを感じたその日から、1日も休まずプレイし続けた彼の膝は、ボロボロだった。

「Dear.バスケットボール」
 コービーのバスケットボールに対する愛が伝わります。⇩

 そして彼の第二の人生が始まった。
 「子供たちは、将来の自分になるかもしれない」
 コービーは、自分が学んだことを、子供たちに残す人生を選んだ。

 選手が彼のことを語る時、必ず子供の話が出てくる。
 コービーは、足を捻挫していようが、膝に痛みがあろうが、試合を見にくる子供たちに、常にビッグスマイルを送った。
 子供たちに、感動を与えるプレイをすると、自身に約束した。
 病気や障害のある子供が試合に来れば、サイン入りのボール、ユニフォーム、シューズをプレゼントするだけではなく、試合前にコートを一緒に歩き、素敵な想い出をプレゼントした。
 マット・バーンズがレイカーズに移籍すると、マットの双子の息子の誕生日には、一緒にバスケットボールのトレーニングをした。
 ドウェイン・ウェイドの息子が来たときは、コートに連れ出し、一緒にウォーミングアップをした。
 コービーが子供に向けるあたたかい視線、優しい言葉の数々を目にしたら、彼を好きにならずにいられない。

 2018年、コービーは「マンバスポーツアカデミー」を設立した。
 6歳の時、バスケットボールを好きになったその日から、朝起きることが楽しみで仕方がなかった。
 コービーは、好きなことがある幸せを知っている。
 そしてスポーツは、よりよい人間を育てると信じていた。

 「目標を設定し、その目標に向かって努力する。
 戦い、負け、プレッシャーに打ち勝ち、自分ができること、できないことをクリアに理解できるようになる」

 「失敗は存在しない。恐れる必要もない。
 月曜日に「失敗」と思うことをする。
 もし、そこで努力をやめれば、それは永遠に「失敗」だ。
 けれども、失敗から学び、火曜日にうまくいけば、それは「失敗」でない。
 だから、常に前進している限り「失敗」は存在しない」

 メッセージを伝えるために、絵本、アニメーション、映画の製作も開始した。
 彼のプロジェクトには、子供たちへの愛と夢がいっぱい詰まっていた。

 そんなコービーの、第二の人生の最大の喜びは、家族と共に過ごす時間だった。
 毎朝7時にオフィスへ行き、2時になると、学校に子供たちを迎えに行く。
 そして、次女のジアナのバスケットボールのコーチをした。
 パパの才能を受け継いだ彼女の筋肉は、パパの動きを覚え、まるでミニ・コービーだった。

 「あんなに幸せそうなコービーはこれまで見たことがない」

 すべての人が言った。
 41歳のコービー・ブライアンは新しい人生を歩み始めたばかりだった。

 2020年1月26日、コービー・ブライアンとジアナ、一緒に試合へ向かう、子供たちとその両親を乗せたヘリコプターが墜落、爆発した。
 このニュースを聞いたとき、すべての人が信じられなかったと思う。
 彼はそんな事故で亡くなる人ではない。
 コービーの死が確実だと知ったとき、彼の心を思った。
 墜落までの1分間、彼はジアナと、他の子供たちを救うために、あらゆる方法を考えたはずだ。
 そして、それが不可能だとわかった瞬間の、彼の悔しさを思うとたまらなかった。

 亡くなった方々すべての人に家族があり、未来があった。
 そこに乗っていた、すべての大人がコービーと同じことを考えたと思う。
 亡くなった方々の死の重さに違いはない。
 けれども、ここではコービーの死にフォーカスしたい。
 
 彼は黒人に対する先入観を変えられるかもしれない人だった。
 スポーツ好きの少年、黒人の子供たちに夢と希望を与えられる人だった。
 コービーの才能を受け継いだジアナは、女子プロバスケットボールの歴史を変える人物になっていただろう。
 ダンナは、彼らの死に涙し、心の底から悔やみ、悲しんだ。
 
 「この国で、黒人が成功することは簡単じゃない。
 コービーは、その中で成功した、数少ない黒人で、俺ら黒人の誇りやった。
 この国に一握りもおらん俺らのヒーローが、なんで亡くなる?
 プリンスやマイケルが死んだときも悲しかったけど、コービーの死はそれ以上に悔しい。
 彼は41歳で、やっと新しい人生が始まったとこや。
 あんなに美しいジアナちゃんと一緒やで。
 彼女の人生はこれからやった。コービーの死よりも悔しい」

 キング牧師、マルコム・X、ケネディ大統領、マイケル・ジャクソン、プリンス、ホイットニー・ヒューストン・・・コービーの死を聞いて、やり切れない気持ちになる理由のひとつだ。


  2016年2月16日、第69回NBAオールスターゲームが開催された。
 ヒップホップ界の重鎮、Dr.ドレーは、コービー・ブライアンとジアナを追悼するショートフィルムを制作した。
 コービーがNBAに入団してから引退するまでの20年間の感動的シーンと、コビーの父親としての姿を断片的に顧みることができる。

 最後は、ステイプル・センターが、コービー・センターに名前が変わり、その上に二人が上に立っている映像だ。
 ジアナが女子バスケットボールで、スター選手になる夢に向かって、二人は共に走っていた。

 オールスターゲームは、シカゴでの開催だったこともあり、シカゴ出身のアーティストがパフォーマンスを披露した。
 ジェニファ―・ハドソンは、「フォー・オール・ウィ・ノウ”ウィ・メイ・ネヴァー・ミート・アゲイン”」を二人に捧げた。

 ニーナ・シモーン、アリサ・フランクリン、ビリー・ホリデー、ナット・キング・コール、ダニー・ハザウェイ、過去に、多くの人がカヴァーしたこの曲は、

 「あなたがこの世を旅立つ前に、もう一度会えるとは限らない。だからその時が訪れる前に、ステキな時間を過ごしましょうね。私たちは流れの波紋のように現れては消えていく。だから今晩、私を愛してね」

 という内容だ。
 2008年に母親、お兄さん、甥御さんを一度に亡くした彼女の歌は、多くの人の心に響いた。

 コモンの「もしこの街が話せたら」というテーマのパフォーマンス・ポエトリーも素晴らしかった。

 シカゴはシューティングなど、ダークなイメージが先行している。
 彼のポエムはシカゴの人々に、この街が生み出したレジェンドたちのことを思い出させてくれた。
 子供たちに、シカゴに選ばれたことを誇りに思い、夢と希望を持ってがんばれと伝えた。
 バスケットボールを愛したコービーへの愛、彼のマンバ・メンタリティ、に対するリスペクトが感じられる、素晴らしいパフォーマンスだった。

 コービーの死を受け止めて、選手たちは全力で前進していると感じたオールスターゲームだった。

 最後に、コービーの引退試合のハイライトです。
 チームメイトは、記録更新のために、すべてのボールをコービーにパスした。
 この会場にいたすべての人が、彼の記録達成を望み、彼を愛し、リスペクトした時間だった。

 コービーを愛する人々によって、コービーの子供たちへの愛とメッセージが残されていくことを願っている。

 

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