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Rosa Parks #2

挑戦

 1933年、ローザ・パークスは高等学校の卒業証書を手にする。
 この時代、高等学校を卒業した黒人はほとんどいない。
 彼女も、16歳のときに学校を中退した。
 おばあさんとママが病に倒れ、看病のためにパイン・レベルへ戻らなければならなかったからだ。
 このような時が来ることは予期していたので、受け入れていた。
 けれども、ローザにとって、卒業は大きな目標だった。 
  
 次の目標は、選挙登録だ。
 投票することなく、白人がコントロールし続ける「法」を変えることはできない。
 まず、投票のためには選挙登録をしなければならない。
 ところが、南部の差別主義は、黒人が簡単に登録できないシステムを作り上げていた。
 1940年代、モンゴメリーで選挙登録をしていた黒人は30人未満だ。
 アラバマ州の黒人人口が、98万人の時代に、である。

 まず登録へ行くことが難しい。
 登録日は不定期で、ウィークデイの10時から12時が選ばれることが多かった。
 メイドをしている黒人には、休みが取りにくい日時だ。
 しかも、その日程は公表されないので、毎回、電話で確認する必要がある。
 せっかく休暇を取っても、12時には受付が終了するので、自分の順番が来る前に終わることもあった。
 
 たとえ、登録時間に間に合っても、次の条件が待っている。
 登録のためには不動産の所有が必要となる。
 もちろん、不動産を所有する黒人など、ほとんどいない。
 この場合、「教養テスト」に合格しなければならない。
 「教養テスト」は、読み書きと、アメリカ憲法を理解できるかどうかを確認する内容だ。
 教育を受けることができない黒人にとっては、簡単なことではない。

 テストに合格しても、黒人に壁は立ちはだかる。
 白人は、合格と同時に登録が完了し、登録証明書が交付される。
 ところが、黒人に限っては郵送だ。
 1943年、テストに初挑戦したローザは、全問正解したと確信した。
 けれども証明書は届かなかった。
 2回目、解答用紙を窓口に提出した途端、

 「不合格!」

 と言われた。
 要するに、選挙登録に、テストの合否は関係ない。
 1945年、3回目の挑戦だ。
 不当に落とされた場合、訴訟ができるよう、回答のコピーを作った。
 この時は、登録証明書は無事に送られてきた。
 
 とはいえ、これで登録が完了するわけではない。
 選挙権が得られる21歳から、登録を完了した年齢までの人頭税を支払わなければならない。
 人頭税は年間1.5ドル、薄給の黒人にとっては、大きな出費だ。
 しかも、過去の人頭税は黒人だけに課せられる。
 白人は、何歳で登録しても1.5ドルだ。
 32歳で登録したローザに請求される金額は、11年分の16.5ドルだ。 

 ローザは全額払い、ついに念願の「選挙登録証」を手に入れた!

NAACP(全米黒人地位向上協会)

 1943年、ローザはNAACPの秘書として働き始める。

 NAACPは、1909年2月12日に人種差別、リンチ、残虐行為、不平等に対して異議を唱え、抗議運動を行うために発足された。
 本部はニューヨークだ。
 少数ながらも、社会平等を信じる白人メンバーもいた。
 彼らは、白人コミュニティから追放される覚悟で入会する。
 黒人に手を差し伸べようとする人間は、常に危険と背中合わせだ。

 ローザの仕事は、報告される事件のすべてを記録することだ。
 大きな事件から新聞にも掲載されない、起訴にすら至らない小さな事件まで、膨大な数に上った。
 黒人の権力への挑戦、劣等市民として扱われることへの抗議を示す、これら歴史的資料は、ある時、手違いで紛失してしまう。
 1940年代から50年代に起きた、これらすべての事件を彼女は知っていた。
 ローザ・パークスが亡くなるまでは、彼女自身が記録であり、歴史だった。

バス会社との戦い

 NAACPは、差別行為を支持する、南部の法律や条令を変えるために全力で戦っていた。
 不平等な法令や条令は数多くある。
 その中でも、多くの黒人が、バスにおける改革を強く望んでいた。
 バス利用客の66%が黒人だ。
 彼らの乗車なしで、バス会社の存続は有り得ない。
 それにも関わらず、バスに乗るたびに差別待遇を受け、1日2回、屈辱を感じなければならない。
 改革を望むのは当然だ。

 1900年、黒人はモンゴメリーの路面電車をボイコットし、成功を収めた歴史がある。
 
 「強制的に席を譲らせる権利は誰にもない」

 市議会は、条令を変更した。
 ところが時間が経つにつれて、条例に従わないドライヴァーが増えてきた。
 1945年、アラバマ州は、バス内での人種差別を法律化した。
 50年前に逆戻りだ。
 とはいえ、法律の内容は具体化されておらず、実施はドライヴァー次第だった。

 NAACPモンゴメリー支部代表のニクソンは、改革を求めて頻繁にバス会社へ足を運んだ。
 まず、料金を支払い、一度バスを降り、改めて後部乗降口から乗車するシステムの変更だ。
 ドライヴァーの中には、乗車する前にバスを発車させる者もいた。

 次に、デイ・ストリートのルート延長と、バスストップの増加を依頼した。
 停留所のあるデイ・ストリート橋の反対側は、黒人コミュニティーだ。
 ところが、黒人コミュニティー側に停留所がない。
 黒人はバス停まで、約800メートルの橋を徒歩で渡らなければならなかった。
 これらの依頼に、バス会社が応じることはない。

 「後部乗降口から乗車することも、800メートル歩いて、ダウンタウンまでの残りの距離をバスで行くことも、彼らが同意してお金を払っている。改革する必要はない」

 ニクソンの他にも、バス会社と戦っている人がいた。
 アラバマ大学の女教授、ジョーアン・ロビンソンだ。
 
 「乗客の大半が黒人なのに、黒人を差別待遇するのは間違っている!」

 バス会社、市長、市の役員たちを相手に、頻繁に交渉した。
 その結果、白人地区を走るバス同様、黒人地区を走るときも各コーナーで停車し、乗客をピックアップするという同意を得た。

NAACPのプラン


 ローザとジョーアンは、黒人が乗車拒否した場合の、バス会社に与える被害について話し合った。
 乗客の66%を占める黒人がボイコットをすれば、バス会社に多大な損失を与え、状況を変える可能性がある。
 問題は、通勤のための交通手段がなくなることだ。
 賛同を得るのは難しい。

 一方、NAACPは、モンゴメリー市を相手に訴訟を起こす準備をしていた。
 必要なことは、訴訟を起こすに十分な事件と、完璧な原告だ。
 原告は同情を得やすい女性が望ましい。
 さらに、信望が厚く、犯罪歴や犯罪に関わる要素がない女性だ。
 裁判で勝利するためには、非の打ちどころのない女性が、席を譲ることを拒否、意義を唱える必要があった。
 過去にも、席を譲ることを拒否した女性はいた。
 けれども、原告として裁判に持ち込み、勝利するには不十分だった。

事件

 1955年12月1日。
 ローザは、自らの仕事に加え、NAACPのワークショップの準備で忙しく、少し疲れていた。
 普段なら、乗車前にドライヴァーを確認する。
 ところが、この日はその習慣を忘れてしまい、お金を払ってから、差別主義のジェイムス・ブレイクのバスに乗車したことを知った。

 2年前のことだ。
 バスは混んでいて、後ろの乗降口から入れそうになかったため、ローザは 料金を払うと、そのまま黒人専用座席のある後部へ移動した。
 ブレイクが言った。

 「なにしてるんや!後ろから乗りなおせ!」
 「もう黒人セクションにいるのに?わざわざバスを降りて、乗り直す必要はないでしょ?」
 「乗車しなおさないなら、俺のバスから降りろ!」

 彼女が乗りなおすためにバスを降りると、ブレイクは乗車を待たずにバスを出発させた。

 再びブレイクのバスに乗車した彼女は、他にもミステイクを冒した。
 この日のバスは込んでいた。
 いつもなら、その状況を見た時点で、座らずに後方で立っている。
 けれども、疲れていた彼女は、黒人席の一番前、ひとつだけ空いていた白人席の後ろの席に座ってしまった。
 次の停留所で数人の白人が乗車し、白人席が埋まった。
 ブレイクが言った。

 「そこの席を譲ってくれ」

 ローザの隣、窓際の男性が立ち上がった。
 彼女は、彼が通りやすいように足を動かした。
 通路の反対側にいた女性たちも立ち上がった。
 ローザは立ち上がり、席を譲る代わりに、窓際の席に座りなおした。
 屈服すればするほど、命令に従えば従うほど、白人の黒人への対応は悪化する。
 彼女は屈服することにうんざりしていた。
 ブレイクが、窓際に座っている彼女を見た。

 「席を譲らんのか?」
 「いいえ」
 「お前を逮捕することになるで」
 「どうぞ、お好きなように」

 警察官に手荒く扱われるかもしれないし、殴られるかもしれない。
 アラバマ州では、何が起こっても不思議ではない。
 彼女は何も考えないようにした。 
 ブレイクが2人の警官を連れて戻って来た。

 「なぜ、席を譲らないの?」
 「あなたたち白人は、どうして私たち黒人に意地悪をするの?」
 「さぁ・・・わからんなぁ。法律やから、逮捕するよ」

 ひとりの警官が彼女のかばんを持ち、もうひとりがショッピングバッグを持ち、彼女を静かにパトカーへと誘った。

 トイレを借りたり、水を飲みたいという要求は叶わなかったけれど、搬送の時も、逮捕の手続きの時も、乱暴に扱われることはなかった。
 ようやく電話を借りて、夫のパークスに連絡をすると、彼は保釈金を集めるために家を飛び出した。
 彼女が「人種分離法違反」で逮捕されたことを確認したニクソンは、釈放の準備を始めた。
 そして彼女が自宅に戻るや否や、ニクソンと弁護士のデュールは、この事件を、人種差別に対抗するテストケースとして扱うことを提案した。

 バス内での人種差別を失くすために、行動を起こさなければならない!


 

最後まで読んでくださってありがとうございます!頂いたサポートは、社会に還元する形で使わせていただきたいと思いまーす!