見出し画像

あの頃のクリス・ジェリコ en Mexico'94①

クリス・ジェリコと初めて会ったのは、94年の夏ごろのことだった。ジェリコはこの時点でメキシコに来てからすでに1年近く経っており、コラソン・デ・レオンの名でNWA世界ミドル級王者にもなっていた。
おそらく会った場所はウェイトトレーニングをしていたスーパーボディージムで、ジェリコと同じEMLLで活躍していたハヤブサ選手を通して面識ができたのだと思う。

ハヤブサ選手は、若手時代にFMWに来日したジェリコと対戦しただけでなく、シリーズ終了後に成田まで見送りにも行っているが、当時は若手と外人レスラーという立場から、まったく会話をした覚えはなかったという。
たまたまメキシコEMLLで再会した二人は年齢が近かったこともあり、一緒にいる機会が増え、ジェリコもぼくたちと同じジムでトレーニングをするようになった。

ジムはボクたちの住むペンション・アミーゴから徒歩5分ほどのところにあり、ジェリコの住むホテル・プラサ・マドリッドの真裏に位置していた。ここには団体を問わず、メキシコマットに上がっている外人レスラーがよく姿を見せる。ハヤブサ選手は夕方、ぼくとフライングキッド市原さんは午前中に行くことが多く、ジェリコも午前中によく一緒になり、いつも同じように向こうから声をかけてきた。

「ヘイ、メーン!」

大きな声でトレーニングルームに入ってくると、同じように市原さんが返し、二人が雑談するのを、ぼくが一歩引いて聞いているという感じだ。

当時のメキシコでは、充実した設備がそろったジムを見つけるのが難しく、最初にボクが通っていたハムリージムでは、プレートはペアで見つけることが困難なほど整備されておらず、同じ重さのはずのダンベルがなぜか違ったり、ラットプルのケーブルは縄でできているため、たびたび切れることがあり、その大音響がジム内に響き渡るなど、日本ではありえないことがしばしばあった。それに比べるとスーパーボディージムの機器は、文句がつけられないほど充実していた。

一緒にトレーニングをするようになったジェリコは、ボクたちの住むアミーゴにプロレスビデオを見に来ることもあった。ネットなどない90年代に、ホテル住まいをしていたジェリコは、日本のプロレスの映像を見たくて飢えていたようだ。
とはいえアミーゴにも、宿泊者用にビデオデッキが用意されているわけではない。ぼくたち長期滞在者は、しばしばオーナー家族が住むスペースの居間にある、テレビとビデオを使わせてもらっていたのだ。

ハヤブサ選手やアミーゴに住むほかの日本人練習生と一緒に、スーパーJ-CUPのビデオを早送りすることなく全部見終わると、今度はFMWの川崎大会のビデオを見始める。これも第一試合から一切早送りはせず、食い入るように見ている。数時間に渡るビデオ鑑賞に疲れたボクたちは一人、また一人といった感じでその場を離れ、最終的に誰もそこからいなくなってしまった。しかし外が暗くなっても、ジェリコはまだ動かない。

最初はイケメンの金髪白人レスラーがやってきたことで大喜びだったアミーゴのオーナー家族の女性陣も、やがて「あの人いつまでいるの?」と様子を伺いだした。研究熱心すぎるジェリコは、多少空気が読めなかったのかもしれない。

この時ピスタ・レボルシオンで行っていた、ボクたちが飛び技を練習する様子のビデオを見たジェリコはこれに興味をもち、一緒に練習に参加するようになった。

ピスタにはウルティモ・ドラゴン選手が自費で購入した、分厚いマットが置いてあった。これを使わせたもらえることになったので、ボクたちは飛び技の練習を行うことが可能となり、ハヤブサ選手はフェニックス・スプラッシュや、シューティング・スタープレスなどの大技を体得することができたのだ。ウェイトトレーニングに通っていたスーパーボディージムにはリングがなく、リングがあるジムでも、天井が低いところが多い。さらにマットを置いてあるジムなどは皆無だった。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?