小林和孝

92年メキシコに渡り、デビューした元ルチャドール。99年に引退後、メキシコ、アメリカで…

小林和孝

92年メキシコに渡り、デビューした元ルチャドール。99年に引退後、メキシコ、アメリカでのプロレス取材と、ルチャリブレに関する記事を執筆。

最近の記事

ウルトラマンエースのデタラメすぎる世界

近年ウルトラマンシリーズのブルーレイ、DVDを見続けていると、懐かしさに浸ると同時に、記憶から抜け落ちていたものや、見たはずなのにまったく記憶になかったものなど、小学生時、自分は怪獣博士だと思っていたのに、それほどではなかったことを思い知ることになった。 初代「ウルトラマン」の王道的なストーリー作りや、「ウルトラセブン」の敵の宇宙人は決して誰もが強いわけではないリアリティのある戦いなど、おじさんになってから見るとずいぶんと違った視点で見ることができた。 3年のブランクを経

    • 昭和に比べてこんなに進化⁉ウルトラマン・ガイアのプロレステクニックと受け身

      平成ウルトラマンシリーズ第三作目となるウルトラマン・ガイア。第一作目のウルトラマン・ティガに関しては以前少しだけ触れたが、二作目ウルトラマン・ダイナの視聴はスルーしたので、今回のプロレス技検証に一作分の空白が生じてしまうが、ご了承のほど。 ティガは時代背景としてK-1全盛期だったこともあり、キック、パンチ、突きが多くみられたが、これはガイアにも同じことがあてはまる。 基本的な技としては、正拳突き、回し蹴り、後ろ回し蹴り(スピンキック)が最も多く、トラースキック、ローリング

      • ウルトラマンエースにみられる、プロレス的技の組み立てかた

        以前「ルチャの受け身とウルトラマンの受け身は同じ?」で、前まわり受け身を中心に、歴代ウルトラ兄弟のプロレス技を使った戦い方を書いたが、今回はウルトラマンエースをフォーカスし、より深堀りしてプロレスラー的に見るとどうなのか?を改めて検証してみたいと思う。 番組開始時のエースは、動きにぎこちなさが見え、超獣と抱き合ってくんずほぐれつの素人のケンカのような戦い方が多い。見た目に何をやっているかわかりずらく、プロレスラーだったら控室に帰って先輩にこっぴどく叱られるであろう闘い方と言

        • メキシコでドラゴンボールが成功した理由

          メキシコで「ドラゴンボール」の人気が最も爆発したのは、97年から98年にかけてのことだ。露店ではキャラクターのイラストを加工したパネルや、フィギュア、Tシャツなど数多くの海賊版が売られ、町中にあふれかえり(メキシコでは正規品のほうが珍しかった)、劇場での舞台化や、映画も公開されるほどだった。 正確には覚えていないが、メキシコで同作品のテレビ放送が始まったのは、95年の後半で、地上波のテレビサ5チャンネルの1時間枠で、一度に2話づつ放送されていた。 当初夕方だった放送時間は、

        ウルトラマンエースのデタラメすぎる世界

          ルチャの受け身とウルトラマンの受け身は同じ?

          コロナが広がりをみせた頃、アメリカではウルトラマンシリーズのブルーレイ(レオ以降はDVD)BOXが続々とリリースされていた。 一作あたり10ドル~15ドルと手ごろな値段だったため、ちょいちょい買っては見てを繰り返し、先日ウルトラマンティガまで見終えることができた。 ここまでシリーズを見ていて気になったのは、ウルトラマンたちが取る受け身。これは昨年Gスピリッツで書かせてもらったが、特撮ヒーローたちが取る前回り受け身は、日本のプロレスや柔道のそれではなく、ルチャ・リブレの前回り

          ルチャの受け身とウルトラマンの受け身は同じ?

          なんでルチャって右で組むの?

          90年代、日本のマット界はインディー団体の登場で、多団体時代へと突入。 そのおかげといってはなんだが、それまで見ることのできなかった、メキシコ直輸入のルチャ・リブレを日本にいながらにして堪能できるようになった。 それ以前もメキシコから多くのルチャドールが来日していたが、日本人の対戦相手として呼ばれた彼らのほとんどが、持ち味を発揮できずにいた。 しかし、そんな彼らも十数人まとめて来日するようになり、メキシコ人同士の対決になると、ウソのように見違えた動きを見せ、ルチャの楽しさ

          なんでルチャって右で組むの?

          あの頃おこった、新日本プロレス3大暴動事件②(終)

          最初にちょっとお知らせです。 8月29日に扶桑社から「俺のプロレス Vol.5」が発売されます。 「検証 初代タイガーマスクの1983年」 「検証 クーデター後、新日本はどうなったのか?」 この2本を書かせていただきました。 来週火曜日発売ですので、書店でみかけたらちょっと見ていただければうれしいです。 では本編の続きをお楽しみ下さい。 ▼87年12月27日両国国技館 イヤーエンド・イン国技館 3大暴動の中で実は根深く、最もファンの怒りを買ったのがこの大会だろう。

          あの頃おこった、新日本プロレス3大暴動事件②(終)

          あの頃おこった、新日本プロレス3大暴動事件①

          これまでプロレス会場にはファンとして、選手として、そして取材のために幾度も訪れてきた。それぞれの立場で記憶に残る大会というのはあるが、ファンとして観戦していた時代に遡ると、80年代に新日本プロレスで暴動の起こった3大会は、のちのち語られることも多いことから、印象深い大会となっている。 83.6.14蔵前国技館 87.3.26大阪城ホール 87.12.27両国国技館 たまたまボクはこの3大会を会場で観戦していた。観客として、なぜ、どのように、暴動が引き起こされてしまったのか

          あの頃おこった、新日本プロレス3大暴動事件①

          あの頃、助けてくれたレスラーたちのお話し

          第一話 大学生のころ、ボクは学生プロレスをしながら、プロレス会場設営のバイトをしていた。4年生の終盤は全日本女子プロレスの会場で、リング作りとイス並べをする機会が多かった。 全女の会場はイス席の後方に立ち見客が指定席エリアに入れないようにフェンスが設置されており、試合中はそこでチケットを確認する門番役をすることが多かった。 指定席エリアに入れる通路はお客さんだけでなく、リングに向かう選手も通るのだが、非常に狭い。小柄な若手が通る分には問題ないのだが、メインに登場するブル中野

          あの頃、助けてくれたレスラーたちのお話し

          あの頃のアントニオ・ペーニャ’97⑤(終)

          その後ボクたちは、ロス・カデテス・デル・エスパシオというチームとの連戦に入った。 前回多少なりとも評価され、今回はどの会場に行ってもカデテスとの対戦ということは、オフィスは「テレビで日本人とカデテスの抗争をやるから」と言ってプロモーターにこのカードを売りこんでいるのだ。しかしなぜかテレビマッチで、この試合が組まれることはなかった。 これはボクたちが年末日本に試合に行くと、オフィスに伝えたことが原因だった。 ペーニャの頭の中ではボクたちとカデテスの抗争を予定していたのだが、

          あの頃のアントニオ・ペーニャ’97⑤(終)

          あの頃のアントニオ・ペーニャ’97④

          デビュー戦にむけてのコメント撮りのためにテレビ局に行くと、ボクの名前を聞いたテレビスタッフが声をかけてきた。 「ゴクウって、ドラゴンボールのゴクウだよね?」 メキシコでドラゴンボールのアニメは、96年からテレビ放送がスタートし、日本同様大人気を博していた。そのおかげでテレビと同じコスチュームを着てゴクウを名のっているぼくにも、ローカル会場ながら子供たちから徐々に声援が飛ぶようになっていた。 アニメの人気はピークといってもいい頃だったので、このままのコスチュームでテレビ中

          あの頃のアントニオ・ペーニャ’97④

          あの頃のアントニオ・ペーニャ'97③

          数日後、ヘススに言われた時間に事務所にやってきたが、朝早いためか、扉はまだ閉ざされていて、中には人の気配がない。 「待ったか?今開けるからな。」 数分後、ちょっとだけあわただしく、ビルのエレベーターから降りてきたヘススはドアの鍵を開け、一緒に中に入ると部屋の電気をつけてまわった。 いつものようにソファーに腰掛け待っていると、現在九州プロレス代表である筑前亮太選手がやってきた。 彼はこの時、メキシコに来てまだ数か月しかたっていなかったが、すでにローカルでデビューしていた。

          あの頃のアントニオ・ペーニャ'97③

          あの頃のアントニオ・ペーニャ’97②

          AAAには3人のマッチメイカーがいて、そのうちの一人であるローカル会場担当者からは仕事をもらうことができるのだが、ここでいい試合をしたところで、テレビマッチに抜擢されることはない。 彼はセミ、メインにAAAのスター選手を使い、自らがプロモーターとなって自主興行を行い、その前座として人数合わせにボクたちを使っているだけなのだ。あくまでAAAのメイン舞台はテレビマッチで、そこに出ない限りはAAAで仕事をしているとはいえない。ワンマン体制のAAAでは、代表のペーニャがイエスといえば

          あの頃のアントニオ・ペーニャ’97②

          あの頃のアントニオ・ペーニャ’97①

          97年4月、所属していたプロモ・アステカをクビになった。 「今まで一緒にやってくれてありがとう。」 呼び出されたオフィスで、代表のリカルド・レジェスは、つらそうに言葉を発した。増えすぎてしまった選手数を、減らさなければならなかったのが理由だが、別に月給をもらっているわけでもなく、所属していることでコストがかかるわけでもないから、腑に落ちないものがあった。 その夜、同じ日本人レスラーで先輩にあたるジライヤ選手から電話があった。 「事務所でリカルドに会えなくて、ゴクウに話

          あの頃のアントニオ・ペーニャ’97①

          あの頃のウルティモ・ゲレーロ’95④(終)

          その翌年である99年2月にボクは最後の試合を行うため、CMLL JAPANのツアーに参加すると、そこにはゲレーロの姿もあった。 プロメル時代は3バカトリオと言っても、実際うるさかったのはパンテリータとレベルデの二人で、ゲレーロはいつも口数が少なくおとなしい。 丸二年ぶりの再会だったが、ぼくも積極的に話をするタイプではないので、一緒にコンビニに行く際や食事の時も、昔のことを話題にするわけでもなく、最低限の会話だけで巡業日程を消化していった。 京都大会でツバサとのマスカラ戦に

          あの頃のウルティモ・ゲレーロ’95④(終)

          あの頃のウルティモ・ゲレーロ’95③

          旗揚げされたばかりの団体プロメルは、選手数が少なかったこともあり、ジライヤ選手、リギラ選手とボクの日本人三人は、毎回のようにゲレーロ、レベルデらとの若手同士による対戦が組まれていた。 北部遠征中も同じようなカードで連戦が続くなか、ある野外会場でのこと、ゲレーロが別人のように動きがシャープでキレまくり、とにかく仕掛けが早く驚かされたことがあった。 ついていくのがやっとというか、早すぎてついていけないのだ。 「今日はいつもの動きと全然違ったけど、何があったんだ?」 試合後、場

          あの頃のウルティモ・ゲレーロ’95③