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あの頃のウルティモ・ゲレーロ'95①

「新団体で日本人選手を探しているぞ。向こうに話しておくから、オフィスに行ってみろ。」

当時世話になっていたプロモーターで、来日経験のあるモヒカーノⅠから連絡があったのは、95年の10月のことだった。

モヒカーノが言った新団体とは、フェルサ・ゲレーラとブルー・パンテルが旗揚げしたプロメルという団体のことだ。
もともとプロメルは、この年1月UWAから選手が大量離脱しAAAに移籍した際、その受け入れ先としてAAAがつくった団体というか軍団的なもので、当時の新日本における平成維新軍のようなものだった。
その後フェルサとパンテルは、数人の選手とともにAAAから離脱。その際プロメル軍のリーダーだったフェルサは、新団体に「プロメル」の名称をそのまま使用して新団体を旗揚げしたのだ。

二人が共同経営するジム「ヒムナシオ・フェルサ・イ・パンテル」内に開設されたオフィスに、メキシコでデビューした日本人のジライヤ選手らとともに足を運んでみたものの、そこには誰もおらず話しなど一切通っていない状態だった。

メキシコではこんなことは当然のようにおこる。むしろ問題なく話がすすむことなど、ありえないと言っていい。ジムの中で4~5時間待っていると、ようやく代表のリカルド・レジェスとブルー・パンテル、フェルサ・ゲレーラの3人が戻ってきたが、話した時間はほんの2~3分程度で、参考になる試合ビデオを提出してくれと言われただけだった。

後日参戦をとりつけ、あらためてオフィスに試合スケジュールを確認しに行くと、ルチャドールと思われる二人の男が話しかけてきた。

「今度の日曜日、お前たちと対戦するスペル・パンクだ。よろしくな。」

パンクのとなりには、もう一人フラナガンと名乗る男もいて、二人ともAAAのロゴの入ったTシャツを身に着けていた。

「トリプレアでやってたの?」

「うーん、少しだけどな。」

彼らはゴメス・パラシオというメキシコ北部の田舎町出身で、地元で行われていたAAA系の興行に出場していたが、同郷出身のスペル・エストレージャであるブルー・パンテルが新団体を旗揚げするにあたり、新戦力としてメキシコシティに呼び出されたようだ。

この時、口数少なくパンクの横に立っていたフラナガンが、現在のウルティモ・ゲレーロだ。

「今度の日曜日は、この団体に来てから初めての試合だから、俺たちにとって本当に重要なんだ。よろしくな。」

ボクにとって新しい団体での初試合という大事な試合は、地方からメキシコシティにでてきたばかりの彼らにとっても同じことだったのだ。

それまで所属していたUWAではメキシコシティ近郊の会場ばかりだったが、この日は会場のあるサン・ルイス・ポトシまで6時間のバス移動だ。
そして会場に着くとテクニコとルードの控室がまったく別の場所にあり、リングに上がるまで対戦相手のスペル・パンクとフラナガンの姿を見ることが一切なかった。

「あいつら本当に会場にいるのかな?」

新団体での初戦、慣れない環境という不安要素が多々ある中、そんなどうでもいいことまで気になってきた。
しかしそれはメキシコシティ進出初戦という大事な試合で、どこの馬の骨ともわからない日本人と対戦するはめになった、フラナガンたちのほうが大きかったにちがいない。

95年11月19日 サン・ルイス・ポトシ、パレンケ・デ・ガジョス(闘鶏場)

これが新団体プロメルの旗揚げ戦だ。
この第2試合でゴクウ、ジンギVSフラナガン、スペル・パンクという試合が組まれた。

リングに上がったボクたちは一様に動きが硬く、地に足がついていない状態で、試合は終始ギクシャクしたものとなった。
試合終盤、フラナガンは追い打ちをかけるべく、ボクをコーナーに投げ飛ばし、勢いよく突進してきた。これをかわしたボクは反撃に転じるべく振り返ると、自爆したフラナガンがコーナーのトップロープにのりあげたままジタバタしていた。
ロープを支える金具の先にタイツの紐が引っかかってしまい、身動きがとれないのだ。攻撃しようとすると、フラナガンから焦りの声が聞こえてきた。

「ちょっと待て!動けないんだ!」

そんな声を無視して容赦なく蹴りを何発かいれると、その勢いでフラナガンは場外に転落。しかしタイツも同時に破れてしまった。
そんなぎこちない初対決の翌々週である11月30日、メキシコシティのヒムナシオG-2で再戦が組まれた。

つづく

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