ドラマ「きのう何食べた?」を語る

 今年一番観た、というか、もともと全然ドラマを観ない私がここ数年で一番録画を繰り返し観ているのが、テレビ東京製作の「きのう何食べた?」。この冬season2も終わり、無事にDVDも予約し、年末年始の休みに入って朝から晩まで録画を流しっぱなしにしいている現在、やはりこのドラマについては語りたい!と一人でこうやって文章を書いている。
 原作は、よしながふみさんの漫画「きのう何食べた?」。他の記事でも語りまくったが、大学生の時に出会って15年、唯一私が買い続けている漫画。まあ、実はもともと漫画もあまり読まないので、漫画でもドラマでも関係なく私はこの作品そのものが大好きなのだ。そして、残念な仕上がりになることの多い二次元の実写化で大成功を見せてくれたドラマにスタンディングオベーションである。

 まず、キャスティングから素晴らしい。漫画に出てくる登場人物たちはみな普通の社会人なので、容姿や雰囲気だけで似ている人もたくさんいたと思う。それこそ、視聴率アップのために売り出し中のアイドルや流行のイケメンをねじ込むこともできただろう。が、演技力と経験優先でキャラクターの年齢に近い実力のある俳優さんたちをキャスティングした製作の方々は、めちゃくちゃボーナス貰っていてほしいと思う。
 そして、出演している方々の演技も素晴らしい。特に、ケンジ役・内野さんとジルベール役・磯村さんは、難しいあの役をあれだけ見事に演じきって……乙女度や繊細さの塩梅がとても難しいところを、あのお二人で本当に良かった。演技力で全てねじ伏せていった感じだった。もちろん、西島さんのシロさんは本当に漫画から出てきたみたいに雰囲気ぴったりだったし、山本さん演じる小日向さんのオリジナルな「妙」感も素敵だ。
 脇、と言うにはもったいないほどのキャスティングだが、特に女優さんたちが輝いていた。season2では、女優さんたちが演技ではなく素でシロさんとケンジの仲を応援というか「推し」ているような空気があった。女性たちの彼らに向ける目が、声が、とても優しい。以前出ているDVDのコメントや雑誌等のインタビューでも、出演している俳優・女優さんたちがこのドラマや原作漫画のファンであることが語られていて、それがこの作品をここまで良いものに昇華させたのだと思えてならない。

 言うまでもなく、脚本も素晴らしい。ベースは20巻超の原作の何話かを切り貼りした状態ではあるのだが、できるだけ時間軸に無理がないよう、あくまでドラマの中では違和感や齟齬が生じないように、とても工夫されている。正味30分×12話の中に、よくあれだけ原作の良さを落とし込めたなあと感服しきりだ。
 そんな中で、ドラマオリジナルの展開やシーンも散見される。大概、実写化だと大失敗とか蛇足とか原作ファンを敵に回す解釈になったりする部分だ。それが、このドラマに関してはあまりにも自然にオリジナルが馴染んでおり、「原作にもこういうシーンあったかもなあ」と思わされるほどだ。脚本や監督をされている方が原作を本当によく読み込み、描かれていない部分を表現するにあたって丁寧に考察してくださった証拠だ。解釈一致、とファンと製作陣が心の中で熱い握手をかわした気分である。

 職場にも友人知人にも、このドラマのファンは多い。原作は知らなかったけどドラマが素敵で、という人もいる。LGBT関係なく、このドラマのテーマは「家族とご飯」なのだ。それがちゃんと伝わっている。私が大学生の時に当時の恋人や家族たちから「ホモ気持ち悪い」「自分をケンジに重ねてうっとりしてるんだろ、きもい」とさんざん言われたのが相当長年こたえていたが、吹き飛んだ。
 そもそも、私は卒業した学部から恋愛の癖まで、シロさんとまったく同じなのである。スーパーの巡り方や食費や家計に関する意見も同じだ。まあ、独身一人暮らしだし趣味にも金はある程度使っているが。だから、私が重ねて見るとすればシロさんであり、実際に「私にもケンジがいてくれたなら……」と強く思うのである。人への気遣いやあたたかさ、明るさ、繊細さも、ケンジと自分では正反対なので。実は孤独な境遇的にはジルベールと同じなので、彼の言うことや態度も理解できるし共感もする

 という自分語りはおいといて、このドラマの良さの話だ。原作の漫画も同性愛者であることについてそれなりにシリアスに描かれている時もあるし、特にシロさんとケンジの家族を巻き込んでの関係の変化についての描写は泣かされることも多い。が、ドラマに比べれば、それがかなり長い時間(原作では大体1巻で1年経っている計算で、発行も大体2年で3冊くらいのペース)をかけ、ゆっくりと進む。だから、見ているこちらもゆるりと見ていられる。対してドラマは、毎週30分で季節がひとつ進むペースだ。だから、ぎゅっと濃縮されている分、こちらの感情も揺さぶられ度が大きい。紙、というワンクッションがないぶん、俳優さんの声や温度が直接心に響いてくることも大きい。
 視聴者が「うっ」と涙を堪える同じタイミングで、西島さんや内野さんが目の縁を赤くして涙を湛えている。あるいは、満たされた顔や悲しむ顔だったりする。感情がシンクロするのだ。それは、「共感」「共鳴」の極致ではないかと思う。

 家事、特に炊事は、多くの家庭で女性が担っている。良い悪いではなくて、出産や子育て等でそうならざるを得ないからそうなっている、ということは痛いほどわかる。このドラマの二人は、違う。主に台所に立つシロさんの方が稼ぎが良い(労働時間はケンジの方が長いと思うが)し、出産や子育ては関係がないし、そもそも二人とも立派に手に職を持つ中年男性なのだ。
原作では初期にほんの少しだけそれに関する発言がある通り、セックスが目的なら、わざわざ一緒に住んで家事を分担して家賃や食費は折半して……という面倒なことなどしなくていいのに、二人は一緒にいる。一緒にいるために、たくさん壁を乗り越えていく。悩んだり時間がかかったり時に言い合いになったりしながら、それでも一緒にいる理由は何だろう。season2では、その答えを12回にわたって提示された気がした。

 season1も大好きだったが、全体として12話の「シロさんの両親とケンジが会う」「二人が気兼ねなく外食する」というゴールに向けた11話、という見方もできる。そこから、正月ドラマ、映画、を経ての今回のseason2なわけだが、映画までは二人の間のちょっとした事件や出来事がビビットにアクセントになった「娯楽」っぽさもあった。Season2では、二人の間で感情的な諍いや事件はなく(周りの登場人物の事件によって二人の立場が変わったりはするが)、本当に普通の一般人の人生や生活と変わりない。実際、シロさんが怒鳴ったりケンジがすまながったりして、観ている者が辛くなるシーンはまったくない。
 ヒトが暮らしていくというのはこういうことなのだ。劇的な展開も事件もなく、ただ毎日ごはんを食べて淡々と歳をとっていく。家族が、特に親子でなく対等な「パートナー」同士が暮らしていくことは、こういうことだ。ごはんを準備して、洗濯物を片付けて、掃除をして、もちろん仕事もして、お互いの人生の中の長い時間を、同じ場所で共有していくことだ。中でも「食」を共有することの重要性を、この作品は教えてくれる。
 映画「かもめ食堂」で心に残るセリフで、「みんな何かを食べないと生きていけないんですね」という一言がある。当たり前だが大事なことで、それを共有するということは、ある意味人生を共有することに通じるのではないか。
 日々少しずつ老いていく私たちは、いつまでも20代の時のままではいられない。特に肉体は、正直にゆっくりと衰えていく。できないことも増えていくけど、責任や厄介は増えていったりする。それをも含めて人生を共有したい相手とは、誰だろう。そんなに大切な人と一緒にいるために、何の努力や妥協ができるだろう。このドラマを見るとそんなことを考える。

 シロさんとケンジには、子どもはできない。結婚もできない。だから、二人を繋いでいるものは、実体のない「愛情」という概念でしかない。しかし、その「愛情」故に二人は一緒にい続けて、どんな終わりがあるにせよそれを大切にしようと深く心に刻んでいる。これは、本当に難しくて、尊いことなのだ。
 大仰に泣きわめいたり熱く抱き合ったりするよりも、冷静に遺言のことを話し合う方が沁みるのは、視聴者にも体験し得ることで、感情としても経験としても身近だからだ。そして勝手な推測だが、パートナーがいる人もいない人もいたことがある人も、この二人のようにはなかなかうまくいかないから、その難しさと尊さを噛みしめるのではないだろうか。

 と、長々と熱くて重い思いを語ってしまった。なにせ、私はもう数年そういうパートナーもなく、ひとりひっそりと年末年始を過ごしているので。家族や恋人がいた時も、日常も年末年始も家事や世話に追われてクタクタだったことは、遠い昔のこと。それらを振り返ってみても、アラフォーにさしかかった今は、あの時のように大車輪の働きでなんでもかんでもはできないなあと思う。老いた。
 このドラマを観ることで、生涯のパートナーを得たいと思うかと言われると微妙だ。だが、少なくとも、「もしも生涯のパートナーとして考えるなら」、自分が何を重視すべきかは分かった気がする。とりあえず、人が作ったごはんを粗末にしたり色んな意味で相手を大切にできない人は選んじゃいけない。
 年末年始、同じくテレ東の「孤独のグルメ」の放送も楽しみにしている。こちらも奇しくも「食」がテーマで、それに対して大変真摯に作られた傑作だ。アラフォー一人ぼっちの年末年始は、「孤独のグルメ」と「きのう何食べた?」に救われる

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