入れ子構造の映画

 前回,天武天皇元年7月の条における神武天皇陵の記述について調べ,歴史の入れ子構造について考えてみたところで,「キャメラを止めるな!」(2022年フランス)をたまたまテレビで見かけました。アザナヴィシウス監督は,「とても複雑で際どい実験のようなものだった。この出来の悪い映画を,席を立たずに30分間も見続けさせることができるのか」と述べていましたが,まさに自分も危うく30分を経ずに脱落してテレビを消すところでした。それでもぎりぎり消さずに最後の感動を味わえたということは,監督のさじ加減が絶妙だったということでしょう。続いて,オリジナルの「カメラを止めるな!」(2017年日本)も観賞しました。
 オリジナルは5層の入れ子構造で成り立っており,登場順に①,②…と表記しますが,そのうち,①と④は通常の長尺映画,③がワンカットの短編(生中継)という設定です。本物のゾンビの出現というのは最も虚構性の高い[物語]ですが,[現実]であったはずの層もまた,上位の層が登場するたびに[物語]へと変異していきます。42テイクと行き詰まっている冒頭の現場①に(監督はA),誰もが虚構にすぎないと思っていたゾンビが乱入することで,虚実入り交じる②の層へと転換します。現場の混乱を監督A自身が撮影するというカオスぶりに,新機軸のゾンビ映画の誕生か? と思わせてまもなく,演出はぐだぐだに陥り短時間で映画は終了。これら2つの層を内包した③がエンドロールにより,まれに見る駄作として姿を現します。
 場面はこれらを内包する④の層へと転換し,③の製作に当たっての交渉,稽古,家庭の様子が描かれます。この時点でも「この監督が監督役をやるとして,③を監督していたのは誰?」という謎が頭に渦巻いています。本来①と③の層で映画を仕上げたのは新たに登場した監督Bだったはずですが,それでは③の層がすんなり④に吸収され,この映画の醍醐味は失われてしまいます。本番直前に監督役がBからAに交代し,撮影する側の立場にいた監督Aが役者としてカメラの前になだれ込むことで,1か月前の出来事と1か月後の出来事が一気に結びつきます。
 監督なしで③が進行できたのはひとえにリハーサルの積み重ねとアドリブ,ADの活躍のおかげだったのですが,このADですら俳優であり,一部ほんもののスタッフもエキストラで混ざっているというのですから,[現実]と[物語]の重ね合わせ状態とでもいいますか,今でも幻惑感が残り,プロットを完全に理解しきれていません。二度三度とみるうちにまた新たな発見があるでしょう。
 本番では③の生中継の[現実]が今一度裏側の視点から入れ子構造で種明かしされ,観客は立て続けに脳内快感を得ます。③の短編映画と④の"本編"中の③のワンカットというスピード感ある手法が[現実]感を一段と高め,①と④の長尺映画の撮影現場との対照・緩急が効果的…と思った矢先,エンドロールでさらにメイキング(⑤)が登場し,野外のシーンの多くを別撮りしていることに気づかされます。カメラマンが腰痛で倒れ,アシスタントがカメラを拾って撮影再開するシーンが,別のプロのカメラマンによって撮影されているのですが,そもそも腰痛で倒れたカメラマンは俳優であることを考えると当然なことです。③のワンカットの撮影は,別角度から二度三度と演じ直して行われていたようですが,これはアングルに注意して見直すとわかることで,初見の観客はトリッキーな編集にすっかりだまされてしまいます。
 それまで[現実]と思っていた④の層がエンドロールでがらがらと[物語]へと変異する,こうしたの入れ子の連鎖は無数に可能で,④の途中で監督役がAから上田監督本人に交代するという展開すらありえます。さらに①③④で監督Aが回していたカメラに映っていた映像は,また別の層の産物として存在するはず,と考えるとくらくらしてきます。
 ②では[物語]が[現実]を突き崩し,④⑤では[現実]が[物語]を突き崩す,こうした[物語]と[現実]のせめぎ合いが観客の脳を揺り動かします。⑤以外は端からフィクションではないかと決めつけるのは間違いで,[現実]と信じきっている出来事が隣りの出来事によって語られることでエピソードと化すという出来事の紡ぎ合い,"互いに関連し合う視点の集まり"によって,この世界は成り立っているといえます。

 音楽で同様の技法が用いられていないかと考えてみると,ザ・ビートルズの「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」が思い当たります。これは"世界初のコンセプトアルバム","オルターエゴ"といった観点から評価されていますが,そういうことよりも,別のバンドの活動をバンドが音で表現するという入れ子構造に新しさがありました。この映画を見て実感しましたが,映像は,音や歌詞,文章による表現に比べ,はるかにわかりやすくこの技法を活用することができます。
 映画体験の良し悪しは自分になぞらえて共感したり身につまされること,自分の人生に足りないものを見出すことで大きく左右されます。ゆえに人によって評価がまちまちなわけですが,日ごろクライアントの無理難題に翻弄される身であること,父娘の物語には弱いことから評価は五つ星です。さらに構図を広げてみると,この映画を鑑賞している自分を仮にだれかが撮影し,youtubeにアップしたとすれば,自分にとっての[現実]を内包する上位の[現実]が現れます。視聴者がその映像を見て,「なに泣いているの,嘘くさい」とでも感じれば,またもう一つ[物語]が生まれるのです。こうして地上世界には無数の入れ子構造が入り乱れ,超[現実]の構造は何一つ存在しません。個々の[現実]はすべて他者の[現実]と関連し合うことによって,境界のあいまいな[物語]に変異していきます。

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