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曇天日没の天橋立

 京都府宮津市の天橋立を訪れました。日本三景の一つに数えられるこの名勝は,地学的に説明すると約4000年前に生まれた砂嘴とよばれる地形,となります。神話に登場する天橋立の由来としては,伊邪那岐命が天界と下界を結ぶためにはしごをつくって立てておいたものの,寝ている間に海上に倒れ,そのまま一本の細長い陸地になったのがこの天橋立であるという伝説が,「丹後風土記」に記されています。  ようやくたどり着いた宮津の風景も,曇天に加えまもなく日没,人影もまばらで,うら寂しい濃緑の連なりにし

    • 陵戸の子孫が語る陵墓の所在地

       引き続き,1966年発行の「特殊部落の研究」(菊池山哉)からの引用を進めます。「綏靖天皇の御陵も違います。これは神武天皇陵の続きで,山本の大尽といわれたところで,やはり丘の上です。神武,綏靖の御陵が田畝の卑地であるはずはありません。神武,綏靖二陵をはじめ4代5代いずれも山の上の清浄の地を選び,前方後円墳のような大古墳は崇神天皇以後のことです」。  これは非常に興味深い一節で,崇神以前の天皇の実在と古墳の様式の変遷が具体的に語られています。綏靖天皇陵は現在,神武天皇陵のすぐ北

      • 神武以来巌石のごとく

         洞村の古老の聞き取り調査を行った菊池山哉氏は,「神武以来巌石のごとく1か所に,連綿として血脈を継続している村が,日本中どこにある」と驚きを隠しません。土地を収用された経緯について元洞村の住民は,「1869年に神武天皇陵が治定される際,私たちは賤民ですから何の話もありませんでした。神武田の中に9尺(約3m)ばかりの古塚があり,それが神武天皇陵となったのですが,付近のわずかばかりの田を私たちがつくっていたところを,"賤民が田をつくるとは何事だ"と言ってきれいに取り上げられてしま

        • 洞村の伝承

           集団移転の後,洞村の人々はどうなったのでしょうか。1966年発行の「特殊部落の研究」(菊池山哉)では,旧洞村の住民に聞き取りを行っています。「自分たちは神武天皇陵の守戸と伝えられております。御陵は東北の尾の上の平らなところで,丸山宮址のところとも,生玉神社のところとも聞いておりますが,丸山宮址のところは径25間ほどの平地で,円形をなし,その中心が径3間ほどこんもり高く,自分たちが覚えているには松の木がしげり,その高いところを通ると音がして,他の地面とは変わっておりました」

        曇天日没の天橋立

          日本で最も発掘してはいけない場所

           "新神武天皇陵"造営のために立ち退かされた洞村の規模は,1854年ごろには約120戸,収用された1920年の時点で200戸ほどの集落だったとのことです。彼らは東征した神武天皇を追って日向から大和へ移住した有志で,本来は名家として名を刻んでもおかしくない人々といえます。墓守を強いられた奴婢ではなく,自らの意思で移住してまで任に当たった人々なのです。しかし,律令制の整備にともない"死体にかかわる職業"として賤民扱いされ,江戸時代にはえた・ひにんに区分されてしまいました。死体に関

          日本で最も発掘してはいけない場所

          神武天皇陵の候補地

           神武天皇に関する歴史書の記述をふりかえってみましょう。「日本書紀」の天武天皇元年7月の条には「672年には神武天皇陵が実在し,その場所も認識されていた」ことが示されています。その位置については,「御陵は畝傍山の北の方の白檮の尾の上にあり(「古事記」)」,「畝傍山の東北の陵に葬り祀る(「日本書紀」)」と記録されています。ここで地形を確認するため,閲覧できる最も年代の古い地形図を参照してみます。候補地は意外と近距離で,ミサンザイ・丸山宮址間の距離は欽明天皇陵の候補とされる見瀬丸

          神武天皇陵の候補地

          入れ子構造の映画

           前回,天武天皇元年7月の条における神武天皇陵の記述について調べ,歴史の入れ子構造について考えてみたところで,「キャメラを止めるな!」(2022年フランス)をたまたまテレビで見かけました。アザナヴィシウス監督は,「とても複雑で際どい実験のようなものだった。この出来の悪い映画を,席を立たずに30分間も見続けさせることができるのか」と述べていましたが,まさに自分も危うく30分を経ずに脱落してテレビを消すところでした。それでもぎりぎり消さずに最後の感動を味わえたということは,監督の

          入れ子構造の映画

          天武天皇と神武天皇陵

           橿原考古学研究所附属博物館から桜井線の駅へ向かう途中,神武天皇陵を通過しました。皇族が頻繁に参拝するということもあって,敷地も周辺道路も完璧に整備されすぎて遺跡という感じがしません。  "天皇の祖先神"である天照大神が住んでいた高天原をはじめ,「原」のつく地名には特別な意味が込められているようです。大阪湾からの最初の侵入を退けられた神武天皇は,大きく南へ迂回して熊野から大和をめざしました。そして,高倉山(奈良県大宇陀)において夢の中に啓示を受けます。「天香山の社の中の土を

          天武天皇と神武天皇陵

          天皇,という称号

           「富本」の文字には,「貨幣は国や国民を富ませるもとである」という,古代中国の統治理念に通じる意味があります。また,その重さ・大きさなどの規格は唐の通貨である開元通宝に準じています。中国にならって中央集権国家の建設を進めた天武天皇の施策の一環として,初の貨幣「富本銭」が鋳造されたのでした。  飛鳥池工房遺跡から出土した木簡には,「天皇聚■弘寅■」(■は不明)と書かれたものがあり,ともに出土した木簡に天武6(677)年とあることから,「天皇」は天武天皇が初めて使った称号である

          天皇,という称号

          飛鳥池工房遺跡と富本銭

           明日香村の酒船石遺跡を訪れたとき,駐車場をはさんで北側に建っていたのが万葉文化館です。2棟ある建物を結ぶ連絡通路の間に飛鳥池工房遺跡が保存されており,ガラス窓越しに見下ろすことができました。これら2棟のいびつな構造については,中庭で遺跡が発見されたのではなく,文化館の建設に当たって遺物が出土したため設計が変更になった,という説明で納得できました。  ここには,飛鳥寺の瓦を焼いた窯や,日本最古の銅銭である「富本銭」が鋳造された工房がありました。蘇我氏宗家の時代から藤原京の時

          飛鳥池工房遺跡と富本銭

          炭化したポンペイの巻物 / 焼失した天皇記

           万葉集の「三山の歌」で注目すべきは,中大兄皇子が神話中の愛憎の物語を把握していたことです。稗田阿礼がそらんじた祖先の物語と系譜を,天武天皇が記録させようと思いつき,数十年のちに実現した歴史書が「古事記」です。  かねてから,「記紀は律令制の完成に当たって,朝廷にとって都合よく創作された物語」と断じる向きがあり,司馬遼太郎なども「大戦中の国威発揚に利用された物語」と切り捨てています。こうした姿勢は安易すぎる,神話には史実が反映されていることを前提に,類推的に考察していかなけ

          炭化したポンペイの巻物 / 焼失した天皇記

          中大兄皇子-〈額田王〉-大海人皇子

           斉明天皇に才能を見出された美貌の歌人・額田王は,天皇の代理で歌を詠む女官として仕え,斉明天皇の子である大海人皇子(後の天武天皇)と結婚し,十市皇女を産みました(653年?)。額田王の生まれは定かではなく,この結婚は17~23歳のことと思われます。  しかし,額田王はのちに大海人皇子の元を離れ,中大兄皇子(後の天智天皇)の後宮に入りました。結婚からわずか4年後の破局です。657年以降,中大兄皇子が4人の娘を次々と大海人皇子のもとへ嫁がせたのは,額田王を奪ったことへの償いである

          中大兄皇子-〈額田王〉-大海人皇子

          山科陵と藤原京の位置関係

           東経135.807度上の三史跡の立地の起点である天智天皇終焉の地・山科から,野口王墓までの直線距離は約59kmあります。両地点間には標高100m超えの丘陵地も分布するので,観測地点を南へ順繰りに移動しながら同経度を結んでいく方法では,しだいに誤差が生じるように思えます。観測地点のそれぞれに微妙な傾斜があるうえ,緯度が変わると日の出・日の入りの時刻も異なってくるからです。そこで,観測地は最初から山科と野口周辺同緯度線上の数か所の候補地に絞り,伝馬を往復させるなどして繰り返し測

          山科陵と藤原京の位置関係

          同一経度上に並ぶ陵墓

           野口王墓は,緯度的には欽明天皇陵とされる梅山古墳の東方約500m,経度的には天智天皇の山科陵の南方約59kmに位置します。試しにgoogle mapで調べてみましたが,野口王墓,山科陵とも東経135.807度でした。驚くほど精度の高い一致です。さらにこの経度は藤原京の中軸線とも重なるとのことです。  「日本書紀」には天武天皇が688年に埋葬され,703年には持統天皇が火葬されたうえで合葬されたとあります。天智天皇の没後すぐに壬申の乱が起こったためか,699年になってようや

          同一経度上に並ぶ陵墓

          野口王墓(天武・持統合葬陵)

           野口王墓(天武・持統合葬陵)は天智天皇陵と並び,被葬者が確定している数少ない陵墓の一つです。堀はなく,墳丘の裾をぐるりと一周できる小道が整備されています。柵や堀に囲まれ見学者を拒む陵墓が大半を占めるなか,この古墳は被葬者の格の大きさに比べてあまりに身近に接することができる構造と小ぶりな墳丘がとても印象的で,まさに古墳時代の終末期を象徴する古墳です。  江戸時代までは,見瀬丸山古墳(先述した小学生による探検で石室の写真が公表された遺跡)が,天武・持統陵と考えられていましたが

          野口王墓(天武・持統合葬陵)

          天智天皇の時計

           天智天皇陵の参道入口左側に立っているのは,日時計の碑です。天智天皇は671年4月25日,大津宮に"漏刻"を設置し,鐘や鼓による時報を開始しました。この日付を太陽暦に換算した6月10日はその後,「時の記念日」に制定されました。  この碑は,大津宮から出土した礎石か何かを移設したものでしょうか。しかし天智天皇が製作した漏刻とは確か水時計で,日時計ではなかったと思います。調べたところこれは,"時計にゆかりの深い天皇"を所以として,その御陵前に京都時計商組合が1938年に建立した

          天智天皇の時計