神武天皇陵の候補地

 神武天皇に関する歴史書の記述をふりかえってみましょう。「日本書紀」の天武天皇元年7月の条には「672年には神武天皇陵が実在し,その場所も認識されていた」ことが示されています。その位置については,「御陵は畝傍山の北の方の白檮の尾の上にあり(「古事記」)」,「畝傍山の東北の陵に葬り祀る(「日本書紀」)」と記録されています。ここで地形を確認するため,閲覧できる最も年代の古い地形図を参照してみます。候補地は意外と近距離で,ミサンザイ・丸山宮址間の距離は欽明天皇陵の候補とされる見瀬丸山・梅山両古墳の距離の約半分です。畝傍山の標高80~100mあたりに,丸山宮址と生玉神社が位置します。

明治時代の畝傍山周辺の地形図(今昔マップより作成)

 丸山宮址=神武天皇陵説は,蒲生君平,本居宣長,竹口英斎,北浦定政らにより支持された有力説で,丸山宮址のそばにある生玉(いくたま)神社は,壬申の乱の戦勝祈願で登場する生霊(いくたま)神に由来するものと考えられます。等高線を見ても,「尾根の上」の条件にあてはまるうえ,丸山には「白檮」を想起させる「カシフ」「カシハ」などの地名が伝えられていました。
 さらに強力な手がかりとして,畝傍山の北東麓にあった洞村の人々は,かつて九州から大和へ渡り,神武天皇陵の守戸(墓守り)を受け持ってきた人々の子孫といわれていました。4世紀初めの古墳の所在が,これら地名の伝承,人々の営みによって連綿と伝えられてきたのは驚異的なことです。
 以上の点から,「江戸時代末の幕府による政治的な治定は論拠に乏しい,いわんや神話上の人物においてをや」という否定が,いかにも短絡的であることがわかります。神武天皇がフィクションであると断じる人々は,「日本書紀」の成立時にも「創世」が行われ,「延喜式」の成立時にもまた「創世」が行われたという,創作に次ぐ創作が重ねられてきたと考えるわけですが,この姿勢では歴史的な考察の入り口にも立てません。加茂岩倉遺跡出土の入れ子状態の銅鐸になぞらえると,「外側の銅鐸は弥生時代のものだが内側の銅鐸は近世の贋作である」と主張するような不自然さです。
 神武天皇生誕地とされ,神聖な"原"の字をいただく宮崎県高原町までもが,「歴史学的には実在性に乏しく,様々な説話が"神武天皇"に集約されたと見てよい」と見解を述べています。そのかたわらで「皇室の始まりが私たちの町と伝えられていることに誇りを持つ」と述べ「神武天皇生誕地」として町を宣伝しているのですから,その欺瞞には,実際しばらく,開いた口がふさがりませんでした。かたくなな実証主義が生む自己破綻の典型といえます。
 "享年137歳"といった神話めいた説話の集約は諸天皇にみられ,天武天皇の場合,「吉野宮に行幸した天皇が琴を弾いていると,山間から雲がわきおこり,"高唐神女"が現れ,曲に合わせて踊った(年中行事秘抄)」という挿話があります。しかしこの話が荒唐無稽だからといって,この期に及んで天武天皇の実在を疑う者はいません。
 邪馬台国九州派は「魏志倭人伝」の「水行十日陸行一月」を条件をいったん切り離し,「南」を採用し,邪馬台国大和派は「南」の条件を切り離し「水行十日陸行一月」を採用したうえで,それぞれの候補地を主張しているわけです。両条件を満たす地域は存在しないから邪馬台国は架空の国であると切り捨てては〜これもまあ一つの主張ですが〜端緒にすらつけません。同じように著しく誇張された天皇の寿命の部分はいったん切り離して考察してみよう,いうのが神武天皇実在論の姿勢です。
 壬申の乱の逸話,神武天皇の存在をともにフィクションと断じるためには,「橿原に藤原京がつくられたころ,初代と設定した神武天皇の陵墓が必要になった。史書に記す天皇の系譜との整合性を図るために,畝傍山に近い誰かの古墳をそれにあてた」と主張する必要があります。これは,太安万侶が架空の人物であり「古事記」は偽書である,と考えられていた1970年代以前ならまだ通用していたであろう強弁です。記紀の記事が次々と発掘調査で実証されるのはなぜか,非実在論は一つひとつの事例について反証していかなければなりません。神武天皇の存在は軍国主義の勃興と崩壊によって上下に大きくゆがめられ,未だ歴史的考察の対象として軸がぶれたまま,誰彼の"翼の向き"を測るための具として扱われているというのが実情です。


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