天武天皇と神武天皇陵

 橿原考古学研究所附属博物館から桜井線の駅へ向かう途中,神武天皇陵を通過しました。皇族が頻繁に参拝するということもあって,敷地も周辺道路も完璧に整備されすぎて遺跡という感じがしません。

神武天皇畝傍山東北陵

 "天皇の祖先神"である天照大神が住んでいた高天原をはじめ,「原」のつく地名には特別な意味が込められているようです。大阪湾からの最初の侵入を退けられた神武天皇は,大きく南へ迂回して熊野から大和をめざしました。そして,高倉山(奈良県大宇陀)において夢の中に啓示を受けます。「天香山の社の中の土を取って,天平瓦80枚を焼き,あわせて厳瓦(神酒を入れる瓶)をつくって天神地祇を祀れ」。神武天皇はこのお告げを実行したうえで二度目の戦いに臨み,長髄彦が妹婿の饒速日命に殺されると大和の平定を成し遂げ,「六合(東西南北天地)の中心」としての橿原の地に宮を構えました。のちの天武天皇が遷都した飛鳥浄御原宮,持統天皇のとき完成した藤原京の,いずれにも橿原同様「原」の文字が使われています。
 天武天皇とのつながりでは,壬申の乱の大和盆地での戦闘において,高市県主許梅(高市郡の大領)に突然神が憑依し,「高市社の事代主神と身狭社の生霊神が告げる。神武天皇陵に馬や兵器を奉納せよ。我は大海人皇子(天武天皇)を守護する」との託宣が下されました。そこで大海人皇子は神武天皇陵に使者を送り,奉納とともに挙兵の報告をしたとされます(「日本書紀」天武天皇元年7月の条)。
 この記事から,当時は神武天皇陵の所在が特定箇所で認識されており,神武天皇の実在性にも疑いがなかったことがわかります。その後,平安時代初めには「延喜式」に,「神武天皇陵は東西1町(100m),南北2町(約200m)の広さ」であり,「977年には国源寺が建てられた」と記されています。しかし,中世以降はその所在が不明となってしまいました。

高市郡(現在)と神武天皇陵,その他の候補地

 江戸時代末に尊王攘夷の風潮が高まると,幕府による陵墓の治定が進められ,「ミサンザイ」にあった2つの円墳を1つの円墳につなぎ神武天皇陵として造営しました。この円墳では鶏形埴輪などが出土していますが,橿考研は,実際には5~6世紀の畝傍山周辺の小首長の古墳であるという見解を示しています。皇紀2600年とされた1940年には,さらに東西約500m,南北約400mの規模に拡張され,前述の「延喜式」のころの約10倍の面積を占めることとなり,この年に神武天皇を祀る橿原神宮も増築されました。
 幕末に儒学者の蒲生君平らが力説した畝傍山の候補地・丸山を排除して,強引に治定されたこの経緯は,「位置がずれているうえに大規模に造営された→王政復古の新しい価値観を高めるため日本書紀の記述に合わせて"創世"されたもの」とする主張を増長する結果となり,そこから「神武天皇の存在そのものがフィクションである」と三段跳びに飛躍する"神武天皇非実在論"が一定の勢力を保ち続けることとなりました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?