見瀬丸山古墳

 (見瀬/五条野)丸山古墳は,その沿革や周辺風景から見ても異色の古墳です。墳丘に接するように並ぶひなびた平屋建ては,明らかに後円部のすそに食い込んでいます。案内板にある空中写真を見ると,この撮影地点に来るとき通った国道は前方部を斜めに横切っていました。国道の外側はもちろん,後円部の片側一帯は宅地となっているため,これが全長310mにおよぶ奈良県最大の前方後円墳という感じはしません。1991年に近所の子どもが,豪雨によって石室への羨道が開いているのを偶然見つけ,そのお父さんが石室まで入って内部の写真を撮影し,これが大々的に報道されたことで騒動となりました。宮内庁が調査に入ったところ石室の全長は28m,全体の重量は石舞台古墳を上回る巨大な横穴式石室であることが確認されました。


この後円部は陵墓参考地

 被葬者をめぐってはそれまで天武・持統天皇,欽明天皇,蘇我稲目,宣化天皇と諸説入り乱れていましたが,石棺のつくりから6世紀後半の欽明天皇,そしてその妃・堅塩媛の合葬という説が改めて浮上しました。もともと欽明天皇陵に比定されているのは,ここから南700mに位置する梅山古墳ですがどうでしょう。史料にみられる葺き石などの記述面からは梅山古墳の方が欽明天皇陵として有力に感じられます。"人目に触れた巨大石室"という共通点から,約2.7km南東にある石舞台古墳の主(とされる)蘇我馬子の父,稲目がここ丸山古墳に葬られたのでは,という感じを現地で受けました。それでは合葬されたのはだれかというとやはり堅塩媛で,蘇我稲目は彼女の父に当たります。欽明/稲目の2説は拮抗し,真相を知るには梅山古墳からの何らかの出土を待つしかありません。
 このような巨大古墳を目の前にしていつも感じるのは,あたり一面にただよう茫漠とした無関心で~石舞台古墳のようにその奇観により観光地化した所は別ですが~この丸山古墳にしても石室の図面を作成したあとは,そそくさと埋め戻されてそれきりという印象です。期せずして豪雨により羨道がむき出されたのを見て探検を試みたこの子どもはお手柄です。フランスのラスコーの壁画も子どもたちの探検により発見されました。父子ともそこが古墳と知っていて入ったのでラスコーとはケースが違いますが,仮に丸山古墳の内部からキトラ古墳クラスの壁画が発見されていれば,宮内庁もすぐに埋め戻したはずはありませんし,父子に対する評価も別だったでしょう。そしてあらゆる陵墓は,キトラ古墳や富雄丸山古墳の遺物を凌駕する文化財が眠る可能性を秘めています。現時点では自然災害や放置された樹林の倒壊などにより,墳丘が内部からめくれあがるのを期待するしかありません。

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