曇天日没の天橋立

 京都府宮津市の天橋立を訪れました。日本三景の一つに数えられるこの名勝は,地学的に説明すると約4000年前に生まれた砂嘴とよばれる地形,となります。神話に登場する天橋立の由来としては,伊邪那岐命が天界と下界を結ぶためにはしごをつくって立てておいたものの,寝ている間に海上に倒れ,そのまま一本の細長い陸地になったのがこの天橋立であるという伝説が,「丹後風土記」に記されています。
 ようやくたどり着いた宮津の風景も,曇天に加えまもなく日没,人影もまばらで,うら寂しい濃緑の連なりにしか映りませんでした。南端で降りて観光すればよかったものを,北端まで走ったため余分な時間をくったのです。砂嘴の入り口まで足を伸ばしたところで引き返し,土産を買ってそそくさとその日の宿を探しに走りました。

 宮津には,「元伊勢」の一つに数えられる籠神社があります。「伊勢に参らば元伊勢参れ」の元伊勢です。皇祖神である天照大神は,10代崇神天皇の代までは皇居内に祀られていましたが,その状態を憂えた天皇の命で理想の鎮座地を求めて各地を転々とし,約90年をかけて現在の伊勢に祀られました。この間,一時的に天照大神が祀られた20数か所の宮々が元伊勢とよばれるようになりました。籠神社の本殿の造りには,伊勢神宮本殿に最も近い唯一神明造りが取り入れられており,元伊勢の中でも特に格式が高い神社とされます。
 籠神社の社伝によれば,神代から豊受大神が祀られ,4代懿徳天皇の時代には「藤祭」という祭礼が始まり,崇神天皇の時代に天照大神が4年間祀られたとされています。その後11代垂仁天皇の時代に天照大神が,21代雄略天皇の時代には豊受大神がそれぞれ伊勢に移されました。
 むごたらしい逸話の伝えられる雄略天皇ですが,皇位に就くいきさつもまた卑劣極まるものでした。20代安康天皇はいとこの市辺押磐皇子(履中天皇の子)に皇位を譲る意思を示していましたが,譲位する前に殺害されてしまいました。2か月後,安康天皇の弟の雄略天皇はこの市辺押磐皇子を狩りに誘い出し,イノシシと間違えたふりをして矢を射あてて殺し,21代天皇として即位しました。
 市辺押磐皇子には億計皇子(8歳),弘計皇子(7歳)の二人の子がいました。父の死後,二人は近臣の導きで大和の市辺宮を離れ,丹波の余社郡(のちの与謝郡)へ逃れました。これが籠神社のある現在の宮津市です。そこに,雄略天皇が二人の捜索を命じたという噂が伝わったため播磨へ移り,近臣の一人がおとりとなって自害したため,追っ手の捜索はそこで途絶えました。皇子たちがどのような道筋をたどったか定かでありませんが,追われる身であることから主要道を避け,山深い道をたどったものと思われます。
 二人の皇子は縮見屯倉(兵庫県三木市)の豪族に仕え,牛馬の飼育に携わって時を過ごしました。やがて雄略天皇が没するとその子が清寧天皇として即位しますが,この天皇には子が生まれませんでした。そこで天皇の系統を継ぐ者の捜索が再開され,ニ皇子が播磨で発見されると,まず弘計皇子が顕宗天皇(23代)として即位,その没後には兄の億計皇子が仁賢天皇(24代)として即位しました。
 舞鶴の赤れんが博物館のパンフレットには,「山椒大夫」の安寿と厨子王が人買いにあって母と引き離され,船で運ばれた先が現在の宮津市であると記されていました。宮津には,悲劇の逃亡先としての何らかの因子があるのでしょうか。安寿と厨子王の関連史跡も宮津へ向かう途中にありましたが,天橋立到着を優先したため見送りました。この日は舞鶴市での見学が長引き,時間が押してしまったのでした。

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