海部氏系図

 天橋立の北側の端に籠神社があります。何の変哲もない鳥居に見えますが,この神社が持つ歴史的背景は並大抵ではありません。ここには饒速日命の直系の子孫が,82代目の宮司として現に住まわれています。また,饒速日命が籠神社の海の奥宮である冠島に降り立ったとき,たずさえていた十種の神宝のうち,沖津鏡,辺津鏡が現在も収められています。これは出土品でなく伝世品としては日本最古のものとされます。

籠神社

 祖である饒速日命(彦火明命)は,いち早く九州から東征し,神武東征時にはすでに丹後を含む畿内を治め,長髄彦を殺害して大和の支配を神武天皇に譲ったあの人物です(富雄丸山古墳の項参照)。つまり海部氏は始祖が天皇家よりもさらに一代古い世代までたどることができる一族ということになります。籠神社の代々の宮司を記した「海部氏系図」は,現存する家系図としては2番目に古いもので,国宝に指定されています。
 「海部氏系図」には,歴代の名前を縦一列に記した「竪系図」,詳しい注釈が入った「勘注系図」の2種類があります。7世紀初め,聖徳太子と蘇我馬子が歴史書の編纂を計画し,各地の豪族から記録を募りました。この際,丹波国の国造となっていた"海部直止羅宿禰"なる人物が,一族の史書として「丹波国造本記」を編纂して朝廷に献上するとともに,自家用の写本を別途つくって保存しました。海部直の「海部」は,海産物を貢納するのみならず水軍としても活躍した,海をなりわいとする集団という意味を含む氏,「直」は姓を示します。
 さらに3代後の8世紀前半に「丹波国造本記」が改訂され,「籠名神社祝部氏之本記」としてまとめられました。さらに平安時代前期,32代の海部直田雄祝が,過去の史料をもとに朝廷に提出するための系図を作成し,「籠名神社祝部氏系図」と名づけて丹後の役所に提出しました。同時につくった写本にも「丹後国印」という朱印が押され,神社に保存されたものがいわゆる「竪系図」です。これは5枚の紙を縦につなぎ,縦線に沿って一列に人名を記載したものです。
 9世紀末,33代の海部直稻雄はそれまでの籠神社の秘録をもとに,詳しい注釈つきの系図をつくりました(いわゆる「勘注系図」)。これには「竪系図」で抜けていた,饒速日命から大和政権の成立期までの海部氏の先祖に関する説明も付されています。この時期の説明は,海部氏から見た傍系血族である物部氏が編纂した「先代旧事本紀」と似た内容で,ともに饒速日命の子孫を重視しています。そこで,海部氏と物部氏の系統を並立させて年表にまとめてみることにしました。天皇の治世は神武天皇の3世紀末,崇神天皇の4世紀後半の2か所を軸とし,記紀の記事の分量に応じて治世年数を配分し,それらの天皇に仕えた物部氏,同時期に宮司であったと思われる海部氏を配列しました。ところが,出典によって人物名が異なるどころか,仕えた天皇,親族関係,祖から数えた世代数もまちまちで,作業は混迷を極めました。


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