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『こころ』から考える、負い目との向き合い方

 私は現在高2ですが、高校の国語の教科書には『こころ』が収録されています。この作品について学んでいく中で、先生が出した最後の問いは

 他者との関わりの中で生まれる「負い目」という問題について、あなたはどう向き合うべきだろうか。

 というもの。ちなみにこの本では、長年負い目で苦しんでいた「先生」は結局自殺を選びます。

 この問いは本当に難しい。世の中には簡単に切り替えられる人と、切り替えられない人がいると思います。私は切り替えられない人です。

 だから、この問いが与えられる以前から、「こんなに苦しむ必要はあるのか、でも、この苦しみをどう手放せばいいのかわからない。」とよく考えていました。でも」結論は出ません。

 そもそもどんな負い目があるのかというと、1つ目は「私は出来損ないだ」という意識、もうひとつは「元彼に酷いことをした」という意識です。

 まずは元彼について。1年半付き合っていましたが、最初の半年くらいで蛙化現象なのか、生理的に嫌になってしまいました。すごく優しい人だったのにどうしてだろう。でも、振れなくて、そこから1年くらい、もう嫌なのに好きなふりをし続けて接していました。

 でもボロが出ちゃったみたいで、つらい思いをさせていたみたいだし、1年間くらい我慢できたのに、あと1週間が待てなくて、すごく残酷なタイミングで振った自分が許せない。

 そして、「出来損ないだ」という意識について。私は、周りの人から見たら頭がいいかもしれないけれど、家族の中では頭が悪いと思います。両親はともに高学歴で、私は双子ですが、もう一人のほうが頭がいい。私が小2の頃、頑張って九九を覚えていましたが、その時幼稚園児だった弟のほうが覚えるのは早かったです。

 別に親は私に向かって「頭が悪い」なんて言わなかったし、誰かをえこひいきしたりするわけでもありませんでした。でも私は「私は出来損ないだ。私って存在価値がないんじゃないか。」という思いを少しずつ募らせていきました。最近になって、私はHSP(繊細さん)かもしれないと気づき始めた。

 まあそんなわけで、存在価値がないのに生きているという負い目を感じていたわけです。呼吸しているだけで二酸化炭素を排出している。服を捨てるときにゴミを増やしている。親の老後の資金を削って育ててもらっている・・・。

 なんだか不思議なことです。私はホームレスや、もう仕事を辞めた高齢者を「存在価値がない」なんて全く思わないし、世の中の人は、どんな人でも幸せになる権利はあって、幸せになってほしいと思っています。でも、そこに自分は含まれていない。

 でも、「自殺したい」なんて少しも思いません。経済学的な視点を持っているからかな。小中高と、公立の学校に行っているということは、国の税金を使って教育を受けているということ。国民から集めた税金で投資してもらっているのに、何も生み出せないまま死ねない。

 それに、死んだ人は楽かもしれないけれど、生きて取り残された人には悲しみを背負わせてしまう。

 私は「出来損ないだ」という意識と、「エリートコースに進んでいる」という意識、2つの相反する意識を持っていると思います。後者の意識があるから、「社会に貢献しないと」という思いが強くなっているんだと思います。

 先程の「他者との関わりの中で生まれる「負い目」という問題について、あなたはどう向き合うべきだろうか。」という問いに対して、「その分何かに貢献するべき」だとは思いません。でも、私はこの苦しみから逃れるためには、「何かに貢献しないと!」と思ってしまう。

 ちょっと前までは

・自分が排出した二酸化炭素量より、多くの量の二酸化炭素を削減する。(植林、もしくは新たな技術の開発、システムの導入などで)
・国が投資してくれた税金より、多くの税金を納める。
・子供を2人以上産む。(少子化に苦しむ日本に貢献するために)
・発展途上国の人たちの暮らしを良くする。(日本で豊かに暮らせるのは、他国を植民地支配していた歴史があったから。また、便利な暮らしの裏には、安い賃金で働いている方がいるから。)

 これらのこと、すべてをしないといけないと思っていました。
 でも去年、読書しながら将来像を思い浮かべたり、いろいろと空回りし、落ち込んだりする中で、「あ、無理だ。」と気づきました。ちょっと気づくのが遅かったかもしれないけれど。

 「子供は産まず、たくさん働いて税金を納めて、収入の一部はユニセフに寄付する」とか、「子育てしながら、貯金の一部で応援したい企業の株を買うなど、株式投資をする」とか、「国際協力に専念する。」みたいに、「分業」という意識でいいじゃんと思いました。

 今、1番いいなと思っている将来像は、大学・大学院で農学部で土壌について学び、環境を破壊しない農業について研究をすること。大学在学中にJICAでインターンをしたい。卒業したら、一般企業に務めるなどして、貯金する。結婚するかしないかはともかくとして、将来住む場所が決まってきたら、農地を探す。そして就農。農地の100%をそうするかはわからないけれども、自然農法を試してみたい。並行して農業の6次産業化ができないか、模索してみたい。そして、株式投資もしたい。それで生活が成り立てば最低限よし、あわよくば稼いで、一部、慈善団体に寄付をしたい。あと、どこかのタイミングで青年海外協力隊になりたい。

  まあ、たぶん夢は1年後には変わっています。笑

 国際協力って、もとから「するぞ~」と意気込まなくていいのかもしれません。好きなことを続けていたら、「あ、これ役に立つかもしれない。」と気づく。そして、実行する。気づかないことだってあるかもしれない。まあそれでもいいか。そのくらい、肩の力を抜いていい気がします。

 最初の質問についての現時点での自分の考えをまとめてみます。

「私は存在価値がない」という負い目は、感じる必要がない負い目なので背負わなくて良い。でも私の場合は、切り替えのためには貢献感が必要。でも、全部に貢献しようと思わなくたっていい。その分どこかの分野で多めに貢献すればよい。

 「人に悪いことをした」という経験は誰もが持っている。だから、負い目を持つ人が不幸にならないといけないならば、全員が不幸になってしまう。

 でも、そんな社会は誰にとっても幸せじゃないから、負い目を背負っていても幸せに生きるのがよい。ただし、相手を苦しめたのだから、誰かの苦しみを和らげようとする姿勢は持つべきだ。でも、「自分が苦しめたのと同じだけ」などと、基準を作るほどはしなくていいと思う。


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