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本が好きなわけじゃなかった

 あんたは誰に似たんだろうねー、とママは不思議そうに、それでいて誇らしそうに、本棚の高いところにある一冊を渡してくれた。
 武田正倫『さんご礁のなぞをさぐって』――小学四年生を対象に書かれたそれを、わたしは小学二年生で手に取った。自信があったから。
 はたして、わたしはそれを読み終えられないまま、とうとう実家を出た。知らないうちに、ひとりで家を借りるくらい造作もない年齢になっていた。

 幼いころからたくさんの本を読みたがったわたしは、字をおぼえるのが比較的早かったらしい。家事に仕事に育児に介護にくたくたで本を読み上げる余力のないママと、立場を替わってわたしが読み聞かせていた。そして寝落ちてしまうママを「まだ終わってない!」と起こす鬼畜だった。
 いよいよ家中の物語を読み上げ尽くしても物足りなかった。次はまだかとねだる子どもに、両親が与えてくれたのは……ちょっとした弁当箱みたいな厚みの、携帯電話の説明書だった。これでしばらくもつ、と考えたという。
 たいそうな量の文を「おもしろいの?」と訝しみながらも家族らに読み聞かせる子どもの姿は、よっぽど愉快で愛おしかったのだろう。いまでも本屋でまじまじと棚を見つめていると、少々申し訳なさそうに語られる。
「もっと本をあげていられたらよかったね、ごめんね」

 田舎の小学校において、携帯電話の説明書を読まされている子どもはさすがにひとりきりだったので、家族は「本が大好きなんだね」とよく感心していた。そうなのか、わたしは本が好きなのか、なるほどなるほど。
 何度も聞かされる言葉はやがて自信になって、もともとよく読んでいた物語以外にも偉人のイラスト解説本や、環境問題の本などを買ってもらったりした。
 けれどもそれらはたいがい読み終えられず、たとえ読み終えたとしても知識として脳内に滞在してはくれなかった。風通しのよい部屋みたいに、じつに潔く抜けていった。

 わたしは本が大好きなはずなのに、どうして?
 一向に進まない偉人解説を前にして、途方に暮れた。かろうじてジョン万次郎という名前だけは意地になっておぼえた。
 褒められたことができなくなるわけない。謎の自信を胸にたっぷり満たして、それ以降も歴史解説本や初心者向けギター教則本を借りたり買ってもらったりしたけれど、やっぱりどれもうまく入ってこなかった。

 いよいよ本が読めない、と自分で認めるしかなくなっても、家族たちにばれるわけにはいかない気がした。この頃には読めない教則本などがかさんで、小説にはたどり着けなくなっていた。本好きたるもの、読み負えないと次の本に進んではいけないと考えていた。
 買ってもらった本たちを、親の前でページを適当にめくっては眺めていた。小賢しくも、読めます、好きですと演じていたのだ。
 しかし着実に、本への苦手意識は募った。いつしか図書室には近寄らなくなっていた。夏休みの感想文はもともと好きだった小説で書いた。
 それでも家族たちに読めないことがバレなかったのは、国語や現代文の教科書を、もらったその日に楽しみ尽くしていたからに違いない。
 なぜかそれらを読み切らないと満足に一日を終えられなかった。その違いが子どものわたしにはわからなかった。

 ネットニュースで海のあれそれが取り上げられているのを見かけるたび、あの読めなかった『さんご礁のなぞをさぐって』が頭をよぎる。わかりやすいイラストの解説がところどころに入っていて、怖さに似た興味をそそられた。おぼえている箇所だって少なくともあるのに、どうして最後までたどり着けなかったのだろう。どうして何度もおなじページのおなじ文章を読み直していたのだろう。
 その答えを、わたしは名古屋市にある鶴舞中央図書館で気づくことになる。

「本好きなのに、あの図書館行ったことないの!?」
 衝撃に身をのけぞらせる友人に手を引かれ、ぶち込まれたのが鶴舞中央図書館だった。広く、おおきいが写真映えするような作りではないため、本を選ぶことに集中できる空間。いかにも市立って感じがした。
 館内図を確認し、わたしは当然のように小説が並ぶ棚へ向かった。視聴覚資料を尻目に雑誌コーナーを抜けると、目当ての棚はすぐそこにある。でも、あることをわかっていて、わたしはそれより手前で立ち止まらざるをえなかった。引っ張られるみたいに一冊を手に取って、開いた。

「ほおずき通りは、海のそば、古い大きな商店街の終わりから始まる、小さな細い通りだと聞いていた。
(たばこ屋の角を曲がる、と……)
 瑠璃は母さんに書いてもらった地図を手に、あたりを見まわした。
 たばこ屋、なんてどこにもない。」

 村山早紀『ルリユール』の冒頭だ。たばこ屋ないんかい、と内心でツッコミつつ、そのほおずき通りとやらがどんなか気になっておさまらなくなり、小脇に抱えた。
 真っ先に借りることを決めたのは、もう何年も触れていない児童文学だった。それこそ、偉人解説本を前に途方に暮れていたころには、棚へ行くこともなかったくらいに。およそ小学三・四年生以来になる。
 主人公・瑠璃がたばこ屋を探すためそうしたように、わたしもあたりを見まわしてみた。驚くことに、そこには興味を惹かれる本がたくさんあった。
 ティーンズコーナーだ。児童文学に限らないけれど、おおよそ物語か誰かの日記といった内容の本がぎっしりと。
「こういうのも好きなんだね」
 後ろをついてきていた友人の、意外そうな声に意識を引き戻された。太宰治とかじゃないんだ。
 たしかに。かなり昔に触れるのをやめた本たちだ。いまさらになって? と、どこからともなく声が聞こえるような気もした。
「うーん、そうみたい……?」
 好きだったかどうかはわからない。ひとまず、こういうのもたまにはいい感じな気がするねー、なんてフワフワの返事をした。

 児童文学を後にして、本来の目的地だった小説コーナーに足を踏み入れた。たくさんの本がこちらを見ていたし、わたしも彼らを見ていた。きみだ! っていう閃光が走るのを今か今かと待ちわびながら。
 それなのに、光らない。どこまで歩いても、何度往復しても、ろうそくみたいな微かな灯りが並ぶようで、目を焼かれるときめきがなかなか現れない。ルリユールは光っていたのに。
 弁解しておくと、本が悪いわけじゃない! そしてわたしが悪いわけでもない。たまたまその時に、ぐっとくる一冊がなかなか見つからないだけだ。それでも焦った。やっぱり本が好きじゃないのだろうか、という久しい不安が胸に迫った。運良く一冊と考えるべきか、こんなにたくさんあるのに一冊、と考えるべきかがわからない。

 本好き、というのは子どものころ与えられた個性。それを否定するのは、幼少期に積み重ねたはずのいろいろを道ばたにこぼしてしまうような恐怖があった。
 わたしはうっかり喪失しないよう必死になって掴みつづけてきた。こいつを失っちゃったら、わたしって何になるんだ? と。
 ここ数年はかなり仕事にのめり込んでいたし、ついに自分は実用書を求めているのだろうか。そう思ってフロアをくまなく回った。
 そうしてまたじっと見入るのは児童文学の棚なのだった。
 友人は実用書の棚を眺めていた。こちらを振り向かないことを確認して、なんとなくかくれんぼをする思いで、こっそりと、やっとティーンズコーナーへ入った。

 それで、ああ、と思い出した。
 わたしはこれらに興味を持つのがどうにも後ろめたかったんだ。

 教室内でみんなが池田美代子『妖怪ナビ・ルナ』を回し読みしているのがけっこう羨ましくて、でもその輪に入ろうという気概はなかった。いわゆる友だちグループに所属しなかったわたしが、本を借りたいがために話しかけるのはひどく利己的に感じられた。
 かといって、だだ広い田舎には子どもの移動圏内に図書館はなく、学校の図書室では誰が何を読んでいたか見られている上に、その時代をときめいている本はいつも誰かが読んでおり、手に取れなかった。
 親と本屋にいっても、児童文学コーナーの前で立ち止まれなかった。もっと大人っぽいものを読んで見せなきゃとでも思っていたのだろうか。わたしは家族で誰より本が好きらしいから。読めもしなかったくせに。
 わたしの地元では児童文学は女の子が読むものだった。そういう印象も、わたしの気持ちをそれらから遠ざけていた。
 現在からふりかえってみるとそういうすべてが、本から離れた原因に思う。

 そもそも初めから、わたしは本が好きなわけじゃなかったのだろう。いまだって実用書はちっとも読めない。小説とエッセイだけはすらすらと読めるし、とてもおもしろく感じるし、一度読むだけで内容もわりと細部までおぼえている、けれど。幼少期に毎日欠かさず入り込んだものも、もらってすぐに熟読した国語の教科書だって、本ではあった、けれど……。

 物語が好きなのか、もしかして!
 小脇に抱えた本を見て、また目を惹く本を何冊も見比べて、ハッとした。どれもこれも小説かエッセイ、誰かの体験記として綴られているものばかり。それらを読んで、頭の中で旅をしたり、いつも生きている世界を違う見方で過ごせるようになるのが楽しかった。
 その瞬間、やけに体が軽くなった。肩のあたりがほわんっと鳴りそうなほどに。ティーンズコーナーにいるという後ろめたさは失せていた。
 そのまま児童文学をいくつか選んだ。そうかあ、物語が好きなのか。そうだな、できれば子どもにロマンを与えるもの、これから生きていくのが楽しみになっちゃうようなやつ。

 子どものころに比べて「女の子が好きなやつ」に拒絶反応が出なくなった。気になる本があれば買えるし、図書貸し出しカードも作れたし。
 当時ちっとも順番が回ってこなかった本は、かつて熱烈に愛された記憶をその身に湛えながら、静かに余生を送っている。わたしたちが子どもじゃなくなっても、連載が続いているものだってある。
 やっと読める、と思った。
 なぜかとても誇らしい気持ちで、貸し出しの列に並んだ。おなじく本を決めたらしい友人が「おお、結構借りるね」と、わたしの胸元を見たが、向こうの抱えている数も似たようなものだった。
「かるい文体のものばかりだし、案外サクッと読み終わると思う」
 冒頭をぱらぱらとめくり内容を確認しなおして、いつか枯れていた自信が、再度湧き出すのを感じながらピースをした。友人は自分で選んだ本をまねするみたいに眺めて「えー、すげー……いっつも読み切れずに返してるわ……」と諦めたように閉じた。それがあんまりにも潔くて、つい笑ってしまった。
「しかも小説って頭ぐるぐるするじゃん」
「そうかな。わたしは実用書が読めないからなあ」
「えっ、そうなの」
 どれもぜんぶ紛うことなく本なのだけれど、それらすべてを愛することは、わたしにはむりだ。そして足繁く図書館に通う友人にもむりである。

 だから図書室を苦い思いで後にしたり、読み終わらないから新しい本が買えないわたしに、とても言ってやりたい。きみは物語が好きなんだよ。
 あと、これはうちの田舎だけだったのかもしれないけれど……。児童文学を読むことはかわいい流行りの女の子だけって考え、つらかったよなあ、小学校では難しくてもいつか読めるからね。
 そもそも大人たちが本気を出して子どもを楽しませようと作っているのだから、それはそれはおもしろいに決まっている。

 まあ残念なことにまだタイムマシーンのない時世。昔の自分になにかを伝えるなんてむりなので、わたしはこれから児童文学をめいっぱい読んでやる。これまでを取り返して余りあるだけの数の、きらめきを読み尽くす気概で。

 そんなわけできらめきのひとつ、木地雅映子『氷の海のガレオン/オルタ』を読み終えた。
 学校というコミュニティにおいて、異物として処理される子は必ずいる。子どもながらに、そういうクラスメイトを見ていたり、あるいは自分がそう処理されたり、そのとき特有の「乱暴だな」という感じは、いまでも容易に思い出せる。
 でもその乱暴さは、誰も言語化できなかった。みんな、それに向き合う時間も、知識も、いつだって不足していた。
 だからこういうふうに、物語として、本という媒体を通して、言葉を獲得できる環境が子どものそばにあったらやっぱり素敵だと思う。家でも学校でも「自分だけが違うことを感じているかもしれない」不安は漠然と、たくさんの子どもが抱えている気がする。どうやったって逃げられない環境で、攻撃したり依存したりする以外に選択肢があるのは心強い。
 児童文学にはいつだって、生きていく不安を生きてみるか、に変える力があるようだから。

 わたしは子どもを育てる気はまったくないけれど、頑固な兄どもには娘たちがいる。まだ二歳くらいのちいさな人間。
 彼女たちがなにかを獲得しようとするとき、選択肢として存在したい。勝手な思惑だ。でも家以外に、学校以外に、離れ小島があることを、いつかここに示したい。
 だって兄たち、頑固なんだもん。うちらの親によく似ている。息苦しいよ、絶対。それが深い愛情によるものだということは、身をもって知ってはいるけれど。

 どれだけ愛されようともわたしは、誰にも本が読めないことを言えなかった。
 だからわたしは「たくさん愛された子ども」という記憶を持って、これから愛されていく姪っ子たちを、ソワソワした気持ちで見守っていく。
 愛されるって重いよな、と誰もが口をはばかることを思いながら。

#創作大賞2023 #エッセイ部門

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