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わたしたちの夢見るからだ【第九話】:今のわたしからタトゥーについて考える

 前回の話を踏まえ。

 先日受けたデザインのオーダーについて、興味深いことがあった。
 ざっくりと言えば傷跡のカバーアップ?などの言い方になるのだろうか。もともとあった傷跡と、ホワイトのインクで彫るタトゥーとを、繋げてひとつのデザインにするというご提案を頂いた。
 デザインを考えているときも、実際に彫ったところを見ても、とても興味深い案であり、仕上がりも素敵なタトゥーになり、良い仕事をさせて頂いてありがたい思いだった。

 その上で、許可をいただき作品をSNSにアップしたところ、普段より反響が大きかったのには驚いたし、また嬉しくもあった。

 提案をいただいたお客さんと、別段に、また直接的にそういったやりとりがあったわけではないが、傷に対してタトゥーでカバーアップをするということ自体に傷痕=ネガティブなイメージをポジティブなイメージに転換する印象が強いようだ。
 そのような視点から、受け入れがたい文脈もあるタトゥーという文化がポジティブに捉えられる投稿として、好ましく受け入れられた反響が大きかったように個人的には感じられた。

 カバーアップのタトゥーだからよい、そうでなければよくないとか、また逆の事もない。
 だが、タトゥーに反体制的、反社会的なイメージを抱いている人にとって、傷跡をカバーするタトゥーは、反社会的イメージとは比較的無関連なポジティブなものとして、タトゥーのイメージを捉えなおすきっかけになるかもしれない。

 タトゥーについてのイメージ。
 自分自身の、タトゥーについての原初の印象を思い出すと、特にポジティブとかネガティブとかそういった印象の文脈上にはなかった。
 服から出る部分の皮膚に大きな面積をとってタトゥーを彫ってある人物を初めて目にしたとき、わたしは、なんか変な人がいる、と思ったのだ。
 それは厳密にタトゥーへの印象というよりは、タトゥーを入れている人を初めて見た時の、その人物に対する印象ではある。
 だがタトゥーが人間の肌の上にしか存在しないことを考えると、タトゥーそのものの第一印象自体が、そのメディアとなるタトゥーを入れていた任意の人物の印象に帰着せざるを得ない、という可能性は大きい。

 自分の知っている「人間」のパターンから外れて皮膚に絵のような模様がある人がいる、未知なので少しこわい。立ち居振る舞いがおかしいことはないので危険かはわからない。
...未知なる事象への危機判断としては単純かつある程度普遍的だと思う。

 その地点の印象をスタートとして、タトゥーについての文化的な情報や知識を得、実践もあった上で、総合的な印象への変化があり今のわたしの知見へと至るわけだ。
(なので、普段から黄色人種を目にする事のない人物がはじめて見る黄色人種が自分であったら、と考えるのと同じように、タトゥーにはじめて遭遇する人にとっての「はじめて見たタトゥーを彫っている人」になる可能性について、考える事もあったりする)
 では今現在のわたしが、タトゥーとそれをとりまく目線、文化、などについてどう考えているか、のいち側面について。

 そもそも西暦2024年現在、日本の地方都市で日本国籍を持ち生活している人間として、タトゥーという文化の現状と、タトゥーを入れている人の置かれている状況について、わたしという個人が観測できる範囲で観測した上での考察になるが、現在の社会において、タトゥーおよびそれをとりまく文化的活動自体が、ある程度の反体制の印象を帯びるのは支離滅裂なことではないと感じる。

 まず著者を取り巻く社会の現状を、個人の権利やその所属が、家などの自治単位から個人に完全に移行するまでの過渡期と捉えるとする。
 そのような状況下で、個人が個人の判断においてタトゥーを自身の皮膚に入れるという行為を、皮膚という個人の財産への権利を個人が行使した結果のものと捉えるとする。

 であれば、タトゥーを自身の皮膚に彫るという個人の決定およびその行使は、既存の古い価値体系へのアンチの意志を示す行動として行われたり捉えられたりする可能性はあるのではないだろうか。
そういった側面で、タトゥーについて社会的な意義や意味合いを全く見出さない事は難しいのだろうと想像する。

つづく


執筆者:無(@everythingroii

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