計算は正しく、打算は間違う

計算:結果や成り行きをある程度予測し、それを予定の一部に入れて考えること

打算:勘定すること、利害や損得を見積もること
(出典;goo辞書)

計算と打算の辞書的な定義は上記の様になるらしい。(もちろん足し算引き算とかの計算は別)

ただ、辞書とは現実に用いられる文脈から結構外れていることが多い。

この打算という言葉の定義は正しいけど、現実に用いられている意味にはもう一つある気がする。

打算的という日本語は、損得勘定で判断を下しがちとか、計算高いという意味の他に

『普通の何気ない会話ややりとりに、何かしらの思惑や下心が含まれている様』

という様な意味もあると思う。
間違ってたらごめんなさい。

その意味で、僕は打算という物は良くないと思う。

計算は大事だ。

計算とは、自分の願い・利益のために計画や行動を形づけることであり、そのためには他者を"動かす"必要がある。

この"動かす"というのが大切。

これは徹底的に自分視点であるように見えて、実は相手の思考や感情をハッキングして動かす、すなわち他者視点や客観性が最も大切である。

だから、自分の願望に素直で周りから見てわかりやすい人間性である上に、他者への思いやりまで必然的に生まれてくる。

一方で打算とはどうか。

思惑や下心が含まれているというのは、こうなってくれたら嬉しいなー、という風に相手に"動いてもらう"考え方だ。

これは計算の時と違って、自分がこうしたい!という希望が前面に出てない分エゴが少ないようにも見えなくはない。

ただ実際は全然違う。

これは相手を動かすための努力を怠り、自分の望みを叶えたいとハッキリ伝えることさえも怠る、限りなく相手任せの考え方だ。

これだと、本心では何をしたいどんな人間かが周りから見て分かりづらく近寄りづらい。

そして、相手を動かすための努力も怠っているので、当然相手目線や思いやりも身に付かない。

だから、思惑や下心といった意味での打算は良くないと僕は思う。

じゃあ、思惑や下心はもっちゃいけないかと言うと、そんなことはない。

人間みんな多少なりとも打算的である。

思惑や下心もある。

だから、美味しい本格コーヒーを淹れる時のように

計算フィルターや、他者視点フィルター、相手を"動かす"フィルターで濾過する必要がある。

濾過して残った分の思惑や下心は、人間として持つべき当然レベルのものであり、言い換えれば〈人間らしさ〉〈動物らしさ〉〈本能らしさ〉であると思う。

それさえなくなってしまったら、人間はロボット同然であり、可愛らしげが全くない。

人には可愛らしさや愛嬌が大切だ。

大人になるというのは、フィルターをもっときめ細かくして、濾過しても残ったエゴや思惑や下心の搾りかすを極限まで少なくすることだと思う。

一方で、濾過しきれず残った搾りかすを如何にして美味しくいただくか、それすらも一つの味わいに変えてしまえるかでもあると思う。

たまに子ども感丸出しのクソおっさんやクソおばさんを見て、こんな大人になりたくないなーとちょっと思う反面、愛されていて素敵だなーと強くしみじみ思う瞬間がある。

実際僕にはそういったクソおっさんクソおばさん友達も何人かいる。

そういう人たちは搾りかすの使い方がとても上手で、それすらも美味しさに変えられた人なんだろうなと思っている。

僕もまだまだ頑張って素敵な大人を目指したい。

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