『動物に「心」は必要か: 擬人主義に立ち向かう』を読んだ

動物の本を読むのは好きだ。本屋に行って、動物の本のコーナーを当てもなく見て回ることがよくある。
載っているエピソードが仕事や生活とかけ離れているので楽しく読めるし、全く知らないことが書かれ過ぎているので読むと安心する。金と時間をかけた現実逃避だ。頼むから仕事の本も読んでくれ。

そんな流れで、表題の本を買った。

動物に「心」は必要か: 擬人主義に立ち向かう 渡辺 茂(著)

画像1

副題である『擬人主義に立ち向かう』と言うフレーズが妙に引っかかったのだ。

元々、動物にアテレコしたり、反省の弁を首から下げさせたりするコンテンツがどうも苦手で、その正体が掴めるような気がしたからだ。
可愛いのはわかる(これは本当にわかる)んだけど、理解しえないものに対して、もうちょっと誠実な向き合い方があるような気がする。同じような理由で「はじめてのおつかい」的なコンテンツも得意じゃない。

読んでみた結論から申し上げますと、そんな程度の話をしている本ではありませんでした。

・本書について

著者である渡辺茂さんは行動実験を軸にヒト・動物の心に迫っている研究者だ。
本書のメインテーマ(及び打倒すべき敵)である「擬人主義」とは「動物の行動の源を人間の情動から推測する」ことであり、著者が行ってきた「ヒトや動物の心を行動から実証する」研究とは真っ向から対立するものである。

本書は以下の五部構成に分かれている。
心理学における行動主義と擬人主義の興隆の歴史を紐解きながら擬人主義(及びロマン主義)を批判し、他者とわかり合うとは何かを問うている。

・個人固有の「心」の概念が定着するまでの史的展望
・進化論
・行動主義の登場
・擬人主義(ロマン主義)批判
・共生するということ

内容はとても難しく、全てを理解できたとは到底言えない。それでも宗教や社会情勢に呼応しながら、形の無い学問が移り変わっていく様は読みごたえがあり、面白かった。
ヒトは正しいものを真実とするのではなく、実務的・心理的に受け入れやすいものを受け入れがちな生き物なのだと改めて思う。自分も例外ではないはずだ。

そんな中、心に留めておこうと思った点を書いてみる。


・情動でなく、理屈で理解しようとすること

差別や分断について、不真面目ながらも考える時がある。嫌悪しつつも、自分の中にそれをしてしまう心があることは否定できない。

肌の色で優劣が決まるなんてことは理屈として当然おかしいし、断じて受け入れがたい。それでも僕は、おじさんになったと自らの年齢を自嘲するし、人は見た目が9割とかほざきながらネクタイを締めることもある。これもきっと、小さな分断を生んでいる。

本書において著者は、擬人主義(ロマン主義)に基づいた研究・営みについて、推論の域を出ない理屈を根拠にしている点について徹底的に批判している。
情動に基づいた推察は受け入れやすく、受け入れやすいものを真実ととらえることは簡単だけれども、楽をせず、踏みとどまって考えなければいけない場面もあるのだろうなと思った。

また、ヒトの倫理観が大きく移り変わっていることも、踏まえておかなければいけないと感じた。「心」が個人固有のものととらえられるようになったのも最近だ。
僕が抱えている倫理観も絶対的真実ではなく、社会システムの一部なんだと思う。


・「みなし」擬人主義であることの自覚

著者は「みなし」擬人主義は日常生活において機能していることは認めつつも(心理学においては「駆逐するべき」としている)、「みなし」であることに自覚的であることが前提だと述べている。この感覚もとても重要な事だと思う。

人の心や行動の理屈を推察すること自体は悪くなく、生きていくうえで有効な手段だ。人の意見や物語への共感も人生を豊かにしてくれる。その上で、自分と他人の区別をはっきりつけて、分別をもって行動しないといけない。
FC東京の勝利は最高だけど、決して僕自身の勝利ではないのだ。



・本を読むのは難しい

動物の行動については去年も同ジャンルの(動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか フランス・ドゥ・ヴァール(著))を読んでいて、「同じような主張だな」と本書を読みながら思っていた。
すると突然(史実にすると当たり前)12章あたりでドゥ・ヴァールが擬人主義の片棒を担ぐ人物として登場した。それはもうめった刺しにされいて、ひっくり返ってしまった。

理解しながら読み進めていたつもりが、全然読めていなかったのだ!

結局ここが1番衝撃だったかもしれない。この場で書いてきたことも、多分な誤解を含んでいるのだろう。もっと本を読んで、読めるようになろう。



この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?