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何歳まで生きれるようになるんだろう

ほこりさいすきやかはろた事ならば
あとハめづらしたすけするぞや (三-98)
しんぢつの心しだいのこのたすけ
やますしなずによハりなきよふ (三-99)
このたすけ百十五才ぢよみよと
さだめつけたい神の一ぢよ (三-100)
にち/\に神の心のせきこみを
そばなるものハなんとをもてる (三-101)

 

天理教教会本部編『おふでさき 付註釈』には、脚注に以下の説明が記されている。

九九、親神が救けると言うても、願う本人の心次第で、真実の心から親神の意に添うならば、定命まで病気もせず、死にもせず、弱ることもなしに暮らす事が出来る。
一〇〇、親神の心としては、人間の定命を百十五歳と定めたいのである。
  かんろだいが出来、天から降らして下さるかんろを頂いたならば、定命まで置いて下され、更に、それ以上心次第でいつまでもこの世に置いてもらえるのである。

 

「それ以上心次第でいつまでも」とは、何百歳も何千歳も、さらには何億歳までも生きれるということなのだろうか。

より具体的なイメージを持つために、文献にそれを求めてみたい。

夫故に、本しんじつヲ定メ呉ルよふ。其心月日が受取タナラ、人げんのじみよふも三百、四百、五百歳迄も、ヤマヅ、よわらすに、イツモ十七、八歳の心にテ、よふきゆさんおさしたさの神のせき込。

天理教敷島大教会史料集成部編『山田伊八郎文書』
(昭和48年8月,山田忠一,p.188)

ここに「五百歳迄も」という文言が出てくる。

僕が知る限り、この年齢が一番長いのであるが、また一つ面白い文献があるので引用したい。

此の甘露台の上に平鉢をのせるのでありますが、其の平鉢の中へ、今から八十五年たつと、甘露の降る日が来る、其の甘露を耳搔きに一杯程飲めば、心次第で三百九十才迄長生きをするのです。

柳井徳次郎『元始りの理(泥海古記後日談)』
(昭和28年1月,天理書房,p.14)

ここには「今から八十五年たつと」とか「耳搔きに一杯程」などと面白い情報があるが、やはり注目したいのは「三百九十才迄」との記載である。

『山田伊八郎文書』の記載との間に矛盾が生じる。

どちらが正解?どちらが間違っている?

いや、僕にとってこの矛盾はどうでもいいのである。こういった文献がある、という事実のみが僕にとって最高のたのしみなのだから。

それに、柳井先生が

前回にもお話し申した通り、天から降った甘露を耳掻きに一杯程頂けば、心次第で三百九十歳迄長生きが出来る。余り長いので、自分から
「一寸、出直しをさせて頂く」
と云って、親子兄弟別れの盃をして、出直しますが、行先きもチャンと解るのであります。

同書(p.37-38)

とも書かれているように、多くの人にとって三百九十歳は長すぎるように感じられるのではないだろうか。
「いや、もっと生きたい」という欲すら「陽気ぐらし世界」の人間には無いのだろう。

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