ふくのたのしみ

お疲れ様です!ふくちゃんです! 教えに魅了され「おやさまをもっと知りたい」という気持ち…

ふくのたのしみ

お疲れ様です!ふくちゃんです! 教えに魅了され「おやさまをもっと知りたい」という気持ちで突っ走ってきた僕が、気ままに自分のたのしみを綴っていきたいと思います。 これは僕が見聞きした“知”をまとめたものです。信憑性の疑わしい話も出てくると思います。よきに判読してお楽しみ下さいませ。

最近の記事

同じような話が二個あるって話(その③)

というお話が残っている。なかなか興味深いお話である。 これと同じような話が中川よし先生の逸話の中にもある。

    • お人好しが頼りない

      『稿本天理教教祖伝逸話篇』に「一二五 先が見えんのや」というお話が収められている。短いので全て引用したい。 そして文末の註には「中山コヨシは、明治十六年八月二十七日結婚。これは、その後、間もなくの事と言われている。」と記されている。 結婚して間もなく、早くも生家へ帰る決心をしたコヨシ先生。その理由は、重吉先生のお人好しを頼りなく思ったからだという。 コヨシ先生は教祖のお言葉をどう悟ったのだろう。何を申し訳なく思い「泣けるだけ泣いてお詫びした」というのか。 中山伊千代「

      • おかのさんの反省文

        立教前の有名なお話の一つに、教祖の飲まれる汁物に毒を盛ったおかのさんのエピソードがある。 次に紹介するのは、毒盛り事件後におかのさんから送られてきたという手紙である。書面はおかのさんの自筆によるもので、大体次のような意味であったそうだ。信憑性はないが面白い記述である。 文面に「庄やさまから中山御主人様の方へよろしく御傳へねがひあげたく候。」とあるように、宛先は中山家ではなく、中山家の隣家の足達家であったらしい。 話半分で捉えているくらいがちょうどいいし、披瀝することなく

        • 同じような話が二個あるって話(その②)

          同じような話が二個あるのは、前回に投稿した「その①」だけにとどまらない。今回はその②と題して書いてみたい。 今回の話はどちらも、井戸の中での作業中に呼び出されて場を離れると、井戸がつぶれて間一髪たすかった、というものである。 まずは昭和47年6月、本部月次祭において山中忠正本部員の神殿講話を引用したい。 次に、浅田徳二郎先生の体験談を紹介したい。先生は、梶本惣治郎先生の弟である宗一郎先生と浅田ならゑ先生との長男である。以下の文章は徳二郎先生の孫にあたる浅田ふさ先生が書い

        同じような話が二個あるって話(その③)

          同じような話が二個あるって話(その①)

          夕づとめの時、祖霊殿に拝をしていると蚊が耳元で羽音を立てた。不快な音に集中力が少し削られる。手で追い払おうとした瞬間に蚊に纏わる、こんな先人のエピソードを思い出した。 船場大教会初代会長であられた梅谷四郎兵衞先生のお話である。 蚊程度に気をとられるようでは、本当の神様のお話を取り次ぐことはできないというのである。この時の様子は山本順司著『静かなる炎ー梅谷四郎兵衞伝ー』207頁に詳しい。 これとまったく同じような話が桝井伊三郎先生にもある。 特筆すべきは、当時のおやしきで

          同じような話が二個あるって話(その①)

          増井りん先生が教祖から聞かれたこと

          増井りん先生が、中南の門屋の西側のお部屋で教祖にお仕えしておられた時、「おりんさん、ときさとしやで」と仰せられて聞かせていただいたお話。それが古い赤い罫紙の書物に書き込まれて残っているという。以下に記すのは、それを山本よしを先生が一言一句もらすことなく一生懸命に書きとったものである。

          増井りん先生が教祖から聞かれたこと

          何歳まで生きれるようになるんだろう

          天理教教会本部編『おふでさき 付註釈』には、脚注に以下の説明が記されている。 「それ以上心次第でいつまでも」とは、何百歳も何千歳も、さらには何億歳までも生きれるということなのだろうか。 より具体的なイメージを持つために、文献にそれを求めてみたい。 ここに「五百歳迄も」という文言が出てくる。 僕が知る限り、この年齢が一番長いのであるが、また一つ面白い文献があるので引用したい。 ここには「今から八十五年たつと」とか「耳搔きに一杯程」などと面白い情報があるが、やはり注目し

          何歳まで生きれるようになるんだろう

          修験者・市兵衞さんの人となり

          ここで登場する市兵衞さんという修験者について詳しくわかる面白い文献があるので紹介したい。 教内の学校に在学していた頃、市兵衞さんについて調べてこいと宿題を出されて、すでに知っていた上記の参考文献を用いて提出した。 翌日、“教義について詳しい”とされる先生から叱られた。「こんな信憑性のない文献を用いるとは何事だ」と。 確かに、これは教会本部の権威の下、発行されたものではない。上記の記載だって信憑性があるかわからない。すべてが史実ではないかもしれない。だから先生という立場上

          修験者・市兵衞さんの人となり

          教えを語るという機会の減少について(私見)

          僕は、信者が日常的に教えを語らないような宗教に明るい展望があるとは思えない。 天理教はどうだろうか。おそらく、その機会が少なくないと思う。 しかし、まだまだだ。信者の教えへの関心、それを語るという前向きな姿勢は十分だとは言えない。 なぜ、そうなるのだろうか。 僕は①"恥じらい"と②"倦厭"という二つの要因から考察してみたい。このように二点に絞ってはみたものの、僕の調査不足から、なお見落としや誤解が少なくない。また他の要因も考えられると思う。「私見」と題し、読者のご教示を願

          教えを語るという機会の減少について(私見)

          かしもの・かりもの以外の珍しい話を求めた高弟

          かしもの・かりもの以外の珍しい話を求めた高弟

          間違いさえなければ

           『稿本天理教教祖伝逸話篇』(以下、『逸話篇』)に103「間違いのないように」というお話が収められている。明治15年、小松駒吉先生が泉田藤吉先生に連れられて、初めておぢばがえりしたときの話である。このとき教祖は、駒吉先生に向けて「大阪のような繁華な所から、よう、このような草深い所へ来られた。年は十八、未だ若い。間違いのないように通りなさい。間違いさえなければ、末は何程結構になるや知れないで」と仰せられたという。そして、この逸話は「駒吉は、このお言葉を自分の一生の守り言葉として

          間違いさえなければ