高円寺上京ものがたり(二)

人生にモテ期があるとしたら、私は、中三の時と、成金の兄さん方と焼肉に行った時だと言うであろう。


中三の時は文化祭の時期のこと。私の中学は、三年生になると、各クラスで演劇をするのが恒例行事になっていた。

私たちのクラスの演目は『レ・ミゼラブル』。
クラスメートの兄弟だか先輩だかが、昔、文化祭で披露し、かなりウケいたものらしく、それをやりたいという話になった。

その文化祭のビデオテープをクラスの中心メンバーで見るため、当時、ビデオデッキを所有していた私の家に集まることになった。

当時、クラスでビデオデッキを持っている家はそこまで多くなかった気がする。

数人の男女が、我が家のビデオデッキを熱望して集まる。


いや、何回、ビデオデッキいうねん!

我が家は自営業で豆腐店を経営しており、子供の頃から同級生の男子にからかわれてきた。
だが、今になってつくづく思うけど、徳島の田舎から出てきて一代で店舗兼住居を建て、二人の子供をなに不自由なく育ててくれた父と母(母は滋賀出身だが)を本当にすごいと思う。

友達に冗談で「豆腐王やん」と言われたけど、まんざら嘘でもない。と思ってる。

そう。私は、ちょっとしたお金持ちの子供のように、勝手に優越感を味わっていたのであった。

とにかく、自分の家にあるビデオデッキを必要として、クラスの男女数名が我が家に来たことがなんとなく人生で優越感を抱けた瞬間な気がしていた。といっても、誰がいたか、ほとんど覚えてないので、向こうも、我が家にきたことを覚えてない可能性があるが。
…え?私のただの夢?まさか…。

枝葉の話が長くなったが、その気持ちを思い出した時代があった。

あるとき、東京の志の輔師匠の会に勉強に行った際、当時、二つ目の落語家や講談師がたくさん勉強に来られていた。あと、郁恵ちゃんも来られていた。(郁恵ちゃんは、もちろんお客様で)

その中に、旅成金で大阪に来ることになる鯉八兄さんと松之丞兄さんがいた。

その時は名前を告げ、挨拶をしただけだったが、大阪に帰り、繁昌亭(の今はなき、輪茶々々庵)で道頓堀ZAZA pocketsでの小痴楽兄さんを加えた3人会のチラシを発見した時、「あ!あの時の方々だ」と思った。

当時の私は、本当に申し訳ないのだが、「成金」という存在を知らず。

ネットで調べて、「東京で一大ブームのお兄さんたちか!」とオドオドしながら勉強に行ったのだが、その時、もう一人勉強に来ていた南舟兄さんが、若干メシアに見えたほど、ホッとした記憶がある。

私は無駄に社会人経験があるので、落語はポンコツでも意外と楽屋働きは良く(自分で言っちゃうけどね。けど、それで前座の頃、仕事いただけてたんちゃうかと思うぐらいで)、その日もセッティングや音響をお手伝いし、そして何故か前説で登場することになる。

その話はまた後日。

探したら、ネットで出てきた!
そうそう。最初は、旅成金ではなく、西遊記やったんや。

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