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『待つ』を過ごすこと。

ふと、ひとつふたつみっつ、と指を折りながら数えた。
それは暗黙の閉塞が世界の底に流れるようになってから、
「色々落ち着いたら食事にでも行きましょう」と知り合いに言った回数だ。確かにそれぞれ別の人に4回は言っていたし、その全ては建前ではなく正真正銘、心からの言葉である。

色々大変そうだしせめて美味しいものを食べてもらいたくて。
年単位で会っていなかったから、近況報告をしたくて。
酒を片手に創作について語り合いたくて。
現実で会ったのは随分前だから、顔が見たくて。
……エトセトラ、エトセトラ。

記憶にある懐かしい顔と、彼(彼女)らのいまに思いを馳せて。けれど現実を浮かべると、まだまだ肩の力を抜いて語り合える日は遠く思える。僕にも事情があり、相手にもまた事情がある。当然のことだ。そして大切な知り合いだからこそ万一のことがあってはならないと思うし、きっと向こうも「いまはまだその時ではない」と待っていてくれるはずだ。そんなに短い仲じゃないのだから。

だから『待つ』を過ごすしかないのだと思う。しばらくは。

少なくとも針でぶすーっと摂取するものの順番が回ってくる頃にでもならないと、口火を切ることも難しいだろうな、と思う。これは完全に周囲の環境から来る個人的な感想なので、実際はそれぞれの意思とそれぞれの責任で自由に判断するべき話だということは念のため書いておきたい。

『待つ』を過ごす。そもそも自分のことをインドアな人間だと思っていたから、こうして気兼ねなく出かけられる日はまだか、と待ち焦がれるようになるなんて思ってもいなかった。思えば時折ふらっと一人旅することを好んでいたし、一緒に美味しいものを食べたいから、と知り合いを食事に誘うことも定期的にあった。住んでいる場所が中途半端な住宅地だからか、多様性を雑然と呑み込む街を歩くのも、吹き抜ける風が好い自然にたたずむのもそれぞれに好きだった。

じゃあなんでインドアな人間だと思っていたかというと、単に夢中になれる趣味がインドアだったからだろう。ハンドメイドも、小説を書くのも、インプットする時は外に出ることはあれど、実際に取り組むのは室内だ(旅館などに缶詰するのに憧れはある)。相対的に室内にこもることが多かったから自分がこもることが好きなのか、と思っていたが意外なほど外での遊びに心の癒やしを得ていたのだ。これはこの禍の中での大きな収穫と言える……と、思いたい。そう思わないとやってられない、というのが正直な気持ちだ。

さて、「自粛な生活は自分にとって案外辛かった」という結論だけでは身も蓋もないから収穫とかなんだとか書きつらねたけれど、現状は変わらない。
『待つ』を過ごすことだ。それしかない。

少しでも楽しい用事を思い出しながら。
相手に会った時に少しでも笑ってもらえそうな話題を探しながら。
増える一方の数字ではなく、クスッと微笑めるニュースを見つけながら。
『待つ』を少しでも楽しくやっていく。

近所の桜もそろそろ見頃らしい。
週末は人間ドックを受けるため、病院へ行く予定だ。
その徒歩の道のりで少し風流な気分で桜並木を歩けますように。
『待つ』を楽しむとは、そういうことから始まると思っている。

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