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肩の荷が下りることについて

つい最近、色々な肩の荷が下りることが重なった。

それは主に自分が勝手に『荷』に感じていたことばかりで。でも、事実として確かに『荷』であったことに違いなく、そして一つ一つは『重荷』では決してないけれど、学期末の小学生みたいに種類を抱えてしまったものだから結果的にはなかなかの重さになっていたようだった。

肩の荷が下りた後、僕はよく体調や精神の調子が悪くなる。
これは本当にそういうふうにできている、としか言いようがない自分の構造だ。疲れがどっとくる、と言えば伝わりやすいだろうけど、微妙にそれだけではなかったりもする。

例えば、抱えていた悩みを誰かに打ち明けることができて、解決に向けた道筋が見えてきた直後に、疲れや不調の濁流が押し寄せて動けなくなってしまうことがある。

きっと、抱えている靄がなくなった、あるいは薄くなった時、一定数の人はすっきりとした晴天を仰ぐんだろう。そして、また靴紐を結び直して歩き出すんだろう。健全だ。それに僕だって靄が取り払われた直後は晴れた空を仰ぐことも、もちろんある。ただ、問題はその後なのだ。真澄の空を見上げて、靴紐を結び直そうと身をかがめた直後に、バランスを崩してばったり倒れてしまう。そんな格好悪いことがしばしば発生するのだ。

自分が格好悪いだけで済めばいいけれど、愚痴や悩みの告白を聞いてくれた人に礼を欠くと思うから、そうなる自分自身は好きではない。というか正直嫌いだ。だからといって、悩みを抱え続けることは精神衛生上きっとよろしくない。だから聞いて頂ける気心知れた知り合いがいることはとても、何にも代えられない幸せなんだと思う。

ただ、ばったり倒れた自分は今此処に存在していて。
頭の中で自分が自分を殴り続けていたり、涙が溢れて止まらなかったり、脳の機能が停止してデスクを前に何もできなくなってしまったり。
どうにか頬を叩いたり、壁に頭を打ち付けたりしてみてもどうしようもない時は本当にどうしようもなくて。
自分が以前早退した時の文章をコピペして貼り付けるのが関の山だ。
それが、今日という日だったのだけれど。

思うに、『荷』を抱えている時は感覚が麻痺しているのだろう。
それは楽しさであったり、充実感であったり。そういった『たくさんの幸せ』で重さの感覚が鈍って、『幸せ』の大波が小波に変わった途端、背負っていた『荷』の重さを改めて感じてしまう。そして、その発現した疲れに堪えきれず、つんのめって倒れる。これが、現在僕の結論だ。

じゃあ、どうすればいいのか。それはぶっちゃけ、今出す解答ではないと思っている。何せ、倒れているからね。
調子が悪い時は安静に休むのが基本のキだし、ある方から言葉を借りると『休息はベストではないかもしれないが、ベターである』のだ。

穏やかな音楽と、映像と、あたたかな部屋。無印のアロマストーンにひといきつけるブレンドオイルを垂らしてみようか。そして気晴らしに外に出て、切らしていた上記のアイマスクを買いに行って。ついでに千円を握りしめて100均で爆買いするのも悪くないかもしれない。

全て、明日起きてから考えることだけれど(明日は有り難いことにお休みを頂いている)。何かひとつでも達成することができたなら、自分を褒めたいと思っている。勝手にとはいえ、たくさん『荷』を抱えて頑張ったのだから。

肩の荷が下りた。でも、変わらず世界は続いている。僕が突っ伏しても当然、時計の針は進み続ける。
だから、せめて癒やされて、心地よさに浸って。また靴紐を結び直せるように、やっていきたい。

さあ、休息をとろう。別にすぐに眠れなくてもいい。可能な限りのんびり過ごして、気づいた時には寝落ちしていたら最高だ。

この文章を読んでいる、物好きな貴方も。
どうか無理をなさらず、休息を大事に過ごしてほしい。
インターネットの片隅の、小さくて弱い人間だけども、僕はそう願っている。

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