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人間を数で見たくない話。

いま居る創作の界隈、その一部を見ていると、数を気にしている人を多く見かける。自分の作品にいくついいねがついた、RTされた、フォロワーが何人も増えた、減った、エトセトラ、エトセトラ。

僕自身も一時かなりそういうのを気にしていて、今回は何いいねだとかいくつ売れただとか。そういうことから自分なりの分析をして、次に生かそうとして……やめました。

何故こんな某加古川市出身構文(わかる人だけわかってね)になったのかというと、人間を数で見たくないと思ったからだ。

いいねの数。RTの数。購入数。フォロワー数。それは遠目で見ればただの数、数字となって見えるけれど、実際は意思のある個々人の集合体だ。

(ここでは機械アカウント・複数アカウントはそうそうないものとして置いておく)

個人は原則的に一人であり、そして誰にも邪魔されるべきではない自由な感性や嗜好を持っている。そしてそれを抱くための年月をそれぞれ大なり小なり重ねている。それを数字で見るだけになると、ただの「1」になってしまう。

無論、たくさんの人に見てもらって評価されるのは嬉しいことだ。たくさんの人がどれくらいの規模か、というのも人によるし、「誰に評価されるか」が主軸になる人ももちろんいるだろうけれど。

でも数字ばかり見ていると、その背景にある個々人の経歴だとか、趣味趣向だとか。それぞれが独立した人間であるということが見えなくなってしまうように感じたのだ。

独立した人間である以上、気分に左右される時もあるし、「これは好きだけど、これはいまいち」という時もある。だから、作品、その種類によって評価の数が違うことも当然あるし、自分がコントロールできない範疇の評価基準がたくさんあると言える。

だから、「あれはいいねしてくれるのに、これはいいねしてくれない」ことが発生して当たり前なのだ。逆にその「個人の自由」の範疇をコントロールしようとするのは、思想や趣向の否定で、その個人を尊重しているとは言いがたい。

そんなことに思い至り、人間を数で見ることをやめよう、と決めたのだ。
もちろん、評価の数や売り上げがそのまま収入に直結して稼がないと如何ともしがたい状況もある。

けれど、少なくとも僕自身は創作を「好きでやっている」。そして「もしそれを同じように好きだと言ってくれる人がいたらとても嬉しい」。その「好き」は個人の自由意志で発生する純粋な感情の発露であってくれると最高に嬉しいし、そんな人がいる、という事実を思うだけでとても幸せな気分になれる。

とはいえ無論、これは一種の綺麗事である。頑張って作ったものにたくさんの良い評価がついてほしいのは当たり前だ。そしてそんな期待は一切捨て去って進むべきだとかそんなことは言いたくはない。何故なら「好きでやる」創作はそんな高尚なものではないと、個人的には思うからだ。

でもこうも思うのだ。いいねを押してくれる人、noteでいうとスキ!を押してくれる人。そうでなくても見てくれた人、自分の記事へのリンクを押してくれた人。数多の人々がが数多の創作の中から自分の創作を見つけてくれた奇跡とか、そしていいねを押すという行動まで至ってくれた巡り合わせとか。そういうものに光を見いだしていく。見いだしていきたい。そんなことを。

だから少なくとも、呟きで数を気にするのは控えめにしていきたいと思う。
言葉にするのは頭の整理にもなるけれど、大して思っていないものが言語化で「事実」になってしまうこともあるから。

創作への評価は自由であってほしい。
同時に、創作をやる人間も自分の趣味趣向に自由であってほしい。


そんなことを、数字に囚われた過去の自分に言いたい昼下がりだった。


ここまで読んで頂き、そしてそもそもこの記事と僕に出会って頂き、ありがとうございました。

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