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二つの思考

「ご満足いただける額でしょうか?」

そう微笑む彼らの前で、僕は愛想笑いが精一杯だった。彼らはTVCMでお馴染みの美容外科の経営陣、中央に座る色白の男が代表だ。僕より一回りは若いだろう。フェラーリから美女を連れて降りてきそうな艶男。いけ好かない奴ならまだしも、愛嬌ある優男ときたもんだ。


彼らなら--

正直、金に目が眩んだ。贅沢しなければ一生働かずに済む額だ。


16年前、コツコツ貯めた数百万の自己資金を元に代官山に小さな店を出した。東京の端っこから地下鉄で通い、休みなく働いた。壁の薄いワンルームの部屋に帰るのは、いつも終電だった。

努力のかいあり、店はすぐに繁盛した。3年で5店舗に成長し、芸能人も通う話題のサロンと持て囃された。化粧品も開発し、それがまた当たった。

順風満タンなベンチャー企業の社長、青年実業家、と呼ばれ、次々と美女を抱いた。薔薇色の人生を手に入れたと思えた。しかし長くは続かなかった。


「これ以上、融資はできません」

銀行の担当が気まずそうに、けれどもハッキリと僕に告げた。そりゃそうだ、調子に乗った僕はさらに店舗を拡大し、その結果、毎月400万もの赤字を産んでいた。残高はみるみる減り、気づけば一億近い借金を抱える始末。代官山の夜景の見えるマンションで、毎晩仕事の夢にうなされた。目覚めた瞬間にどっと疲れた。

逃げ出したい、消えてしまいたい、そんな事ばかり考えていた。


転機を迎えたのは皮肉にもコロナだった。"俺だけじゃない、世界中が苦しいんだ"そう思うと、スッと開き直れた。採算が合わず従業員への情だけで続けていた店を売った。「社長は私達を見捨てるのですか?」と言った者は誰一人いなかった。「引取先を見つけてくれてありがとうございました」と、感謝され泣いた。

それから僕は奮起した。途中、若い娘にうつつを抜かすも、仕事だけは真面目に取り組んだ。借金を返し、従業員の給料を上げ、少しばかりの冨を築く事ができた。3人目の妻と、幼い息子と幸せに暮らしている。

僕は想う。なんて波瀾万丈な人生なのだろう、と。

排水溝の滑りを使い古した歯ブラシで磨き、履かなくなったブーツをアプリで売る。育った観葉植物を植え替え、家族で回転寿司を食べた。自転車に一人で乗れた息子の自慢話を皆で笑う。


僕は穏やかな日常を愛しているが、刺激のない人生に満足しない。反比例する二つの思考。


売れんのか...?裸一貫で築き上げた会社を?
逃すのか...?この大いなるチャンスを?


僕は考えるのをやめた。

今はそんな事よりTバックを被りたい。




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