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やり場のない焦燥感を癒してくれた「ラーメン二郎」の思い出。

この店名を聞くたびにいつも思っていたことなのだが、三田の個店で営業していた頃の「ラーメン二郎」と今のそれとは、別物のような気がする。これって僕だけの感覚だろうか。

以前、新宿あたりでラーメン二郎に入ったことがある。山盛りの野菜とギトギトスープの、まさに今のラーメン二郎だった。とても食べ切れなくて、というより、思っていたラーメンとは違いすぎて、かなり残してしまった。

僕が大学生の頃のラーメン二郎は、田町駅から仲通りを通り抜けて、大通りを渡った大学キャンパスの敷地の角にあった。50メートルほど行けば慶応大学の正門である。いつも10〜20人くらいの行列ができていて、30分ほど待つのは当たり前だった。

学生にとって30分はそんなに長くはない。漫画か本を読んでいれば、すぐに時間は過ぎる。会社勤めをするようになってから、近くに行った時に訪ねてみたが、以前と同じ行列で諦めたことが何回もあった。

僕の記憶では当時、創業者の山田さんが一人で切り盛りしていた。完全なワンオペである。次から次へと入る注文を間違えなく作り、黙々と仕事をしておられた。会計まで手が回らないから客まかせである。食べ終わったお客はカウンターの上に空いた丼とお金を置き、お釣りの場合は自分で必要な額の小銭をカウンターから持ち帰っていた。2階は雀荘になっていて、何回か出前をしてもらった記憶があるから、時間帯によっては空いていたこともあったんだろう。

創業者の山田拓美さん(フジテレビHPより引用)

注文する標準のメニューは「ただのラーメン」。といっても、普通に焼豚と野菜が入った立派なラーメンで、これが僕の記憶では150円だった。40年前である。それにしても安かった。麺と野菜と焼豚の量を増やし、卵とニンニクを加えたのが「全部入りラーメン」で、これが250円だったと思う。キャンパス内にある学食よりも安く、「全部入り」を食べれば1日に必要な栄養は取れるような気がしていた。(上のタイトル画像が、探した中では当時の「ただのラーメン」に近いと思う)

バイト代が入った時には、大通りの対面にあった吉野家へ行った。こちらはいつもガラガラだったからだ。牛丼に味噌汁・卵・おしんこをつけて、確か400円くらい。地方出身の貧乏学生のちょっとした贅沢だったが、食べ終わって二郎の行列を横目で見ながら、やっぱ「全部入り」にしておくべきだったかと後悔したことも度々だった。

その頃僕は新聞部に所属しており、その部室が大学校舎の地下にあった。新聞部のOBはかなりの数が新聞社へ就職していて、よく部室に顔を出していた。散らかり放題でとても良い環境とは言えないところに来る目的は、部室に引かれた固定電話だ。ケータイの登場などはるか後のことで、少し横柄な態度で電話を使う先輩に、僕たち現役部員はいつも辟易していた。

ある時、そのOBの一人が「飯食いにいこう」と珍しく誘ってくれた。付いて行ったのは3人くらいだったろうか。行き先はラーメン二郎である。長い行列に並んでいた時、そのOBが言った。

「商学部で入試問題が漏洩したらしい。ちょっと取材を手伝ってくれないか」

それから数ヶ月間、OBの指示のままに僕らは動き回った。事件の真相は次第にわかってきたが、僕らの活動が成果を上げたかと言われると、ほぼなかったと思う。ただ面白がって新聞記者気取りの取材をしていただけだ。二郎の「全部入り」一杯でこき使われたことに、少し腹が立ってもいた。

その学生新聞は、印刷を茅場町にあった株式新聞社にお願いしていた。毎月何日間か割付や校正をしに行くと、隣の机では田中角栄の越山会の機関紙「越山」の編集部が作業をしていた。「田中先生、来たる!」と「学費値上げ反対!」という真逆の見出しが踊る二つの新聞が隣同士の机で作業をしていたわけだ。かなりシュールな光景だったと思う。

校了して茅場町から帰る時、無性に「全部入り」が食べたくなった。茅場町から三田までの電車賃を入れても、「全部入り」を食べる方が安くて満足度が高いと思った。細かな校正作業の疲れと、やり場のない焦燥感を癒すには、ラーメン二郎が必要だったのだ。

ラーメン二郎で思い出すのは、そんな切なくなるような学生時代の風景なのである。

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