好きな歌詞

を、書き連ねていくためのノートです。

①くるり 太陽のブルース

大事なことは、忘れたりしないように
どこかで拾った 紙切れに書いておこう

(2018.1.29追加)

これ、すごいな、と思って。

今の日本のポップミュージックだと、大体、大事なものは、「心に刻んむ」んです笑

心に刻むって、もうね、さぶい
さぶいですね

それよりも、岸田さんが書いたような、書くのは「どこかで拾った紙」でいいから、忘れたくない、という切実さのほうに、どんっと不意を突かれました。

これを曲のど頭に持ってくるって、やっぱ岸田さんは天才ですね。

僕も、忘れないように、とキーボードを叩きました。

また何か良い歌詞があれば追記していきます。

②きのこ帝国 海と花束

僕たちはいつも かなわないものから順番に愛してしまう

(2018.1.30追加)

これ、ほんとドキッとするフレーズです。ニヒリズム的です。

きのこ帝国の佐藤さん、このときはいくつだったんでしょう。人間の欲望を、実にリアルに捉えています。それをポップソングの中でポッと提示する。すごい力量です。

人間の欲望を亢進させるのは、実は「抑圧」だ、という事実を、これだけ詩的に表現した一文はないでしょう。

そして、それを「欲する」ではなく「愛してしまう」と表現したのがすごい。

「愛する」という、一般的には、美徳とされていることすら、俯瞰してみています。

そして、ただただペシミスティックに陥りがちなテーマを、至極のポップソングに仕上げているのは

伝えたいことなんて とっくのとうにない

錯覚おこしてる

それだけなんだよ それだけなんだよ

 というリフレインです。

リフレインする、ということが、自分に言い聞かせているような印象を与えます。

自分自身の欲望や、愛するという行為を、ペシミスティックに見つめながらも、言葉にできない感情を抱えている主人公が、海に花束をもって現れます。

この「花束」というのが、決してだれにも渡せない気持ちのメタファーになっています。そして「海」が背景として現れることで、他者との絶対的な距離が想起されます。

我々は、誰もが、人に手渡すことのできない「花束」を抱えながら生きているのかもしれませんね。

この曲の構成は、一つ目に紹介した「太陽のブルース」と似ています。

「太陽」「海」という超自然的なものと、「ブルース」「花束」という人為的なものを組み合わせることによって、絶妙な「違和感」を生み出しているんです。「人為的なもの」と「自然」との対比というのは、世代を超えても扱われる普遍的なテーマなんですよね。

③ ZAZEN BOYS  はあとぶれいく

いつか悪魔と対決する日を待っている

惰眠を貪り食っている 悪魔がくるのを待っている!

なーんか無性にささくれだって いらいらしてる

サカリのついたメス猫みたいに

かーきむしって破れた皮膚が 真っ赤な血で滲む

サカリのついたメス猫みたいに

(2018.2.2追加)

この曲が収録されているアルバム「すとーりーず」は、日本語ロックの1つの完成系を示した名盤です。必聴です。ぶっ飛びます。

作品全体として、ボードレールの詩のような、「リアリズム」を有しています。

ここで私が「リアリズム」というのは、的確な心象描写、風景描写、という意味ではありません。

普段、我々が持っている、「感覚」というのは、本来は言葉にできないものです。「うれしい」「かなしい」「楽しい」と表象されますが、それは、感情に一応の説明を付けたもの、です。

そういう表象により、感情を「指し示す」のではなく、言葉により感情を揺り動かし、別の言葉へと漂着させる、または漂着させずそのまま泳がせる、ということを、向井秀徳という男はこのすとーりーずという作品でやってのけた。

「感覚」と「表象」の一度引きはがし、もう一度、最接近を試みた実験作、とでもいえるでしょうか。

ここで紹介した歌詞ですが、人間のヒロイズム的な部分を、嘲笑うかのようです。自我のあほらしさと、はかなさを表現しています。

誰もが持つ、「俺の人生は素晴らしいものだ」という思念みたいなものを「サカリのついた メス猫みたいに」と歌うのです。

①②で紹介した2曲に比べて、この歌詞は、ペシミスティックな感覚はありません。淡々と、人間の所業を浮き彫りにしてきます。

④キリンジ エイリアンズ

まるで 僕らはエイリアンズ 禁断の実 頬張っては 月の裏を夢見て

君を愛してる エイリアン
この星の僻地の僕らに
魔法をかけてみせるさ

(2018.5.2追加)

僕の中で、日本のポップソング史上最高の歌詞です、エイリアンズ。

「まるで僕らはエイリアンズ」

「まるで」というのは、本来、既知の事象に対して使う言葉です。

まさに、〇〇のようだ、のような意味で使いますよね

エイリアンズというのは、「よくわからない」ものです

リドリースコットの「エイリアン」がヒットする前は、エイリアンには異星人という意味はなかったそうで、元は「異邦人」や「外国人」という意味です

「まるで僕らはエイリアンズ」というのは、未知に対する、全肯定だと思います

「わからない」という意味の単語に、「まるで」とつけることで、わからないものを現実世界に無理矢理引きずり込む

考えてみれば、我々が「知っていること」なんて、世界の数パーセントしかなくて、あとはファンタジーですよね

親戚だろうが、他人だろうが、夫婦だろうご、考えてることなんてまったくわからないし、自分がなぜ生きてるかだってわからない

ただ、我々ができることは、そのファンタジーと自分との関係を壊したり、作ったり、することだけです

「これは皿だ」と思えば、それはサラダをよそう皿に、「これは灰皿だ」と思えば、それは灰皿となる

ポップソングの使命とは、そういう「ファンタジー」と「現実」の接点を作り出し、聞いた人の世界との関係を再構築すること、なのかなぁと思いました

リドリースコットが、エイリアンの言葉の意味を変えてしまったように

わからなくても、愛してるって、究極の愛、ですよね

大好きさエイリアンズ わかるかい?」


#エッセイ

#コラム

#音楽

#歌詞

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?