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勉強ができると幸せになれるのか?

こんばんは、寺子です。
突然ですが、勉強ができると人は幸せな人生を送れるのでしょうか?
つい先日、ある小学生と会いました。その子は難関と言われる某中学に中学受験をしようとしているかなり頭の良い小学生で、しかし小学校で周りと馴染めなくて不登校になってしまったタイプの子供でした。その子と話していてぽろっと言われた「勉強ができることが今までの自分の価値だったけど、勉強ができても学校じゃ意味がない」という言葉を聞いてふと昔を思い出しました。

私も小学生時代はかなりの優等生で、勉強ができることに自分の価値はあると思っていました。でも次第に勉強ができる子供より場の空気が読めてコミュ力のある子どもの方が大人から可愛がられるし生きやすいし愛されると気づいてしまい、努力に意味を見出せなくなった経験があります。勉強ができることで私の人生で追い求めているものが手に入るわけではなかったのです。

その経験は小学生の時だけではなく、今までの優等生人生で何度か感じたことのある感覚です。はっきり言って勉強への努力は幸せへと繋がらない、なのになぜ私やその小学生は優等生であり続けるのか……。

昔から私たちは童話しかり戦隊シリーズ然り勧善懲悪の物語を教え込まれてきました。苦しくても努力しまっすぎに生き正しさを貫けば救われる、そんなふわふわとした綺麗なものへの信仰が私たちの根底にはあるのです。なので私たちは真面目に生き続ければ救われると信じている。その真面目さとは、今の現代風にアレンジすれば子ども時代の大半を過ごす学校という社会の小箱で「優等生」として生きることなのではないか、と思います。優等生は先生の言うことを聞いて勉強もできて悪いことはしない。そうすれば幸せになれる。しかし、実際の社会はそんな優等生が生き抜けるほど優しくも綺麗でもない。
では誰が幸せになれるのか。それはどちらかと言うと優等生より、その場の空気が読めて社交的で時には嘘もつけるような、そんな人to人への生きやすさを持った人間なのかなと思います。しかし勧善懲悪の世界を信じる将来の優等生候補の幼い子供にそのことを認めるのは酷なことなのかもしません。

そもそも私たち優等生の求める「幸せ」とは、社会的に認められ何か称号をもらえると言うよりかは「誰かに必要とされる」ことなんだと思います。誰かに認められ必要とされ愛される。子供が欲しがっているもの満載です。任天堂switchより欲しがっているはずです。そして、これを得るためにはどうしたらいいか、というところで優等生資質を持った子供は勧善懲悪の世界へ潜り込んでしまうのではないかと思います。

人は勉強ができても幸せになれるわけではなない。特に私のような優等生タイプは、この「勉強ができる=幸せ」の世界からそろそろ卒業しないといけない気もします。つまりただまっすぐに生きるのではなくしっかりと周りを見ながら器用に生きていくことも必要なのかな、と思います。それは卑劣でも悪でもなく、一種の社交性だとも思います。しかし勉強ができるのがよくないわけでは決してなく、勉強ができることで幸せになろうとしない限り勉強ができることはその人のとても希少な価値だとも確信しています。

幸せってどうやったら得られるのかは今この歳になっても全くわかりません。とりあえず日々の苦しみをうまくかわして消化するのに精一杯で生きている。大人って結構しょうもない生き物なのかもしれません(大雑把まとめ)。



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