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定置網を繰り返す

島食の寺子屋が始まってから、今まで年に1度は定置網漁に乗船してきた。

自分が定置網を知る為に乗船したのを初回に、以降は生徒たちの乗船体験のアテンドや、取材対応であったりと。

乗船の時期はまばらなものの、島民の中でもそれなりに乗船している方かと思う。今年は生徒が8名いるということで、4名ずつを2日に分けて乗船アテンドした。

2日連続で乗船するなんてことは、今回のような事情がなければ自主的にはしなかったはず。たったの2日だけど、繰り返し乗った。

今回の乗船での目標は、「仕掛けの構造を海面から理解する」だった。
つい最近の飲み会の席で、漁師さんに「定置網の仕掛けの構造を絵に書いてみて」と突如言われて、正確さを全く欠いたものを描いてしまい、いかに”なんとなく”の理解で普段過ごしてきたかを痛感したからである。

ということで、乗船するまでに、ネット情報であったり、漁師さんが見せてくれた仕掛けのスケッチを写真で送ってもらったりして、定置網の仕掛けを頭の中にしっかり入れてみた。

そして、いざ乗船1日目。
予習が功を奏して、「確かにこういう形をしていて、今の作業はこの網の部分か」とイメージが重なる部分もあった。一方で、仕掛けによっては、海面からは見えない部分が多いのもあり、イメージを重ねる作業を全くできないところもあった。
乗船2日目に、前日に聞きそびれてしまったことを聞いてみて、分からなかった部分がほんの少しだけ分かった。

けれども、見えない壁にぶち当たった感覚が残る。ここから、どう更に理解を進めていけばいいのか皆目見当がつかず、何度も見てきた場面を見始める。追い込んだ魚を大きなタモで掬い船のタンクへと移す、いわゆる一般人のイメージする「漁」のシーン。

その時に、この作業を毎日「繰り返す」んだなと思った。これまでは、船酔いを心配したり、海の綺麗な景色に目を奪われたり、とにかく「すごい」と単発イベントのような感覚で乗船を終えていた。それを繰り返してみたことで、今後もずっと繰り返していったらどういうものなのかを想像するきっかけになった。

漁師さん達が何を考えて、何を思いながら、毎日出航して魚を獲って港に帰ってきて、魚を出荷していくんだろう。

どのような仕事でも、「繰り返す」ということは必ずある。
料理人も繰り返すということは多々あるし、繰り返しの積み重ねで、その人が作られていくと考えている。もちろん、劇的な出来事で価値観が変わったり、一気に成長することもある。それでも、繰り返しがその人と仕事を作っていくものだと思う。

だからこそ、この「繰り返す」ということが漁師さんの場合、どのようなものなのか気になった。

ただ、仕掛けの構造の理解を進めるのを、2日目にして前進させられなくなった挫折も響いていたのか、繰り返しの先が見えなくなった。乗船することで、漁についての学びが前進あるのみと思っていたものが、2歩進んで3歩下がり余計に分からなくなってしまったのだ。

もやもやとしているうちに、また漁師さんと飲むことがあった。
飲み会のふとした時に、「繰り返し」という言葉を出した。それが、漁師さんにはどうも引っかかったらしい。「繰り返し」という言葉は否定的にも響き得る。言葉を選んだつもりではあるけど、飲み会が終わったあとに家まで歩いて帰る道中で喋り、最後は結局立ち話で1時間ほど話した。

料理を学ぶ立場として、網の仕掛けを理解することは勿論大事だとは思うけど、それを生徒本人たちがどう落とし込んでいくことが良いのか。1年という限られたカリキュラムなのであれば、自然環境や仕掛けが漁獲にどう影響するかの因果関係を理解するだけでも良いのではとなったり。

お酒も入り、日付も変わって、朦朧とした意識の中でも、漁師さんにはっきりと伝えられたことは、定置網漁の漁師にとって「仕掛け」を作ることが仕事であるということ。漁をすることは、仕掛けがあっての漁。

「漁師」という仕事であったり人について、また一から考えるきっかけとなった。今日も定置網漁は動いている。

(文:島食の寺子屋・受入コーディネーター 恒光)