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父への報告

今日は、父の命日です。父が亡くなって11年が経ちました。

今朝、例年通り、お墓参りに行きました。

私は、お墓参りがどちらかというと好きな方です。我が家は、父も母も末っ子ですが、兄弟の中で唯一人地元に残っていたので、伯父たちが亡くなり代替わりするまで墓守をしていました。幸い、両家とも同じお寺の檀家だったので、墓地の中にお墓が、母方、母方の家がお守を頼まれているお墓、父方、我が家とあちこちにあり、一回お墓参りに行くとあっちに行ったり、こっちに来たり、お花、線香を手向け、お水を持ってさまようという感じでした。

その上に、本居家と同じお寺の檀家なので、物心ついたときから、お線香を宣長さんの石碑にも手向けて手を合わせてきます。

お墓といえば、今朝、ニュースで取り上げられていた終活の話題の中で、私の理解が正しければ、お子さんのいないご夫婦で先に夫が亡くなり、納骨をしたけれど、妻が亡くなったときには、そのお墓がどこなのか知っている人がいなくて、妻の方は無縁納骨となっているという話がありました。

10年以上前ですが、法務局に勤める友人が、私は独身でも姪や甥がいるけれど、彼女は独身なうえに、血のつながった甥も姪もいないから、死亡届が受理されるまでの手続きが大変なのだという話をしていて、驚きました。そのときと同じくらいこの国の危機のようなものを実感しました。

少子化、高齢化というのは、ただ社会を支える次の世代が少なくなり、支えられるべき世代が増えているということではなく、自分たちの営みを次に伝えるべき人が減っているということでもあるわけです。古くから続く「営み」は、古いとか無駄だとかでさっさと片づけてはいけないもので、「迷惑をかけたくない」からと無くしてしまえば良いことではないのではないかと、私は思うのです。

この夏、毎日のように私を苛立たせることを言うようになった母と暮らしながら、それは「迷惑」ではなく私が次に進むための「営み」なのではないかと感じています。そして、母は、自分も同じ「営み」を経験しているから、私を苛立たせたあと、必ず「ありがとう」と、笑います。 笑

少なくともある程度までは、それで済んでしまう関係を残していけば、もう少し世の中住みやすいのではないかと考えながら、父への夏の報告を今年も無事終えました。

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