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【漢詩と仲良く♪】田原坂 佐佐友房

こんにちは。寺山瑞穂です。

詩吟をやっています。
詩吟とは、漢詩や和歌、俳句などに、節をつけて朗々と読み上げるものです。
もっと上手に吟じるために、詩文の意味や背景について勉強?した内容をここに置いておきます。そして、寺山の感想も書いてみます。
寺山の勉強ノートみたいなものなので、記載には間違いは多いかもしれませんし、感想もよくわかってない浅いものだと思います。そこを恐れずギャーギャー言って(書いて)みます。
詩と仲良くなるための寺山の試みです。

そして、詩吟や漢詩に興味を持つ方が増えたらいいなと思っています。

田原坂 佐佐友房

田原坂(西南役陣中作) 佐佐友房
雨撲戰袍風捲沙 江山十里兩三家
壮圖一蹶無窮恨 立馬斷橋看落花

読み

田原坂(たばるざか)
佐佐友房(さっさ ともふさ)

雨は戦袍(せんぽう)を撲(う)ち 風 沙(すな)を捲(ま)く
江山(こうざん)十里(じゅうり)両三家(りょうさんか)
壮図(そうと)一蹶(いっけつ)無窮(むきゅう)の恨み
馬を断橋(だんきょう)に立てて落花を看(み)る

福島岳風会監修 吟道研修教本 第四十四集

通釈

雨は激しく軍服をうちつけるように降り、風は強く吹き、砂を巻き上げている。この田原坂は見渡す限りの山河の中に、人家が二、三軒あるだけである。壮大な計画が挫折し、かえって無限の恨みが残った。馬を断橋に止めて、静かに花の散るのを見ているのである。

福島岳風会監修 吟道研修教本 第四十四集

佐々友房

佐々 友房 (さっさ ともふさ、 嘉永 7年 1月23日 ( 1854年 2月20日 ) - 明治 39年( 1906年 ) 9月28日 )は、 日本 の 教育者 、 政治家 。 熊本県 選出 衆議院議員 。

佐々友房 - Wikipedia

熊本藩士の次男として生まれる。
水戸学に傾倒し、明治7年(1874年)2月に江藤新平の佐賀の乱に参加しようと同志と謀っていたが、断念。明治9年(1876年)の神風連の乱にも不参加。
明治10年(1877年)西南戦争で薩摩軍に身を投じ転戦。激しい戦いとなった吉次峠と田原坂の戦いに参加。戦闘で重傷を負い官軍病院に搬送され、戦後は宮崎の監獄に収監された。
獄中で、青年子弟を教育し国家有用の人材を養うことが必要と決意。出獄後、同心学舎(現在の熊本県立済々黌高等学校)を設立し、皇室中心、国家主義を建学精神とした。
その後、言論界に進出。政治結社の結成、新聞の刊行などを行う。
明治22年(1889年)1月には熊本国権党を組織し、第一回帝国議会が開設されると、衆議院議員に立候補し当選を果たす。以後当選回数は連続9回。
対外硬運動を展開するなどした反面、大陸通としても知られた

「田原坂」は、作者23歳、明治10年西南戦争の最大の激戦田原坂の戦いの折に書かれた。戦争の激しさと、無残な敗北の心境を詠じたもの。

西南戦争

1877年(明治10年)1月29日から9月24日に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本最後の内戦でもある。

西南戦争 - Wikipedia

水戸学

水戸学(みとがく)は、江戸時代の日本の常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)において形成された学風、学問。後期水戸学といわれる第9代藩主徳川斉昭のもとで発展した尊王攘夷思想は、明治維新の思想的原動力となった。

感想

2024年度、三段の課題吟。

この詩を課題としていただいた最初の感想は、「好きじゃない…」でした。

そもそも、無駄に漢字が難しいのが好きじゃない(笑)無駄かどうか知らないけど。なんで日本の知識階級の人が書く漢詩って小難しいの?俺は学があるって自慢したいの?ええ、これは私の偏見です。

西南戦争がどういうものかもよく知らない。その盟主であるという西郷隆盛がどういう人物かも、ちゃんと知らない。明治維新でどういうことがあって、西郷隆盛がどういう働きをして、そしてどうして西南戦争に至ったか、わかっていない。
そういう私ですので、そういった時代背景から付け焼刃のお勉強をしなくてはなりませんでした。

どうも私個人は尊王攘夷派には共感を持てません。まぁ明治維新の志士ってのに、どういう立場の人であれ、そもそも共感は持てないんだけど。
「壮図」って、明治政府を倒すってことでしょ?明治維新によって困窮に陥った士族の不満が、政府への内戦という形で向けられたんだよね?
尊王攘夷論をたてに、その時の権力者への不満を戦という形で発散しているだけなんじゃないの?それで何人もの人が亡くなって、周りの田畑も荒らして(田原坂では十里のなかに2,3件しか人家がないって、そこの住民はどうしたの?その土地が荒らされたのは戦いによってだよね?)、それは本当に「壮図」なわけ?カッコつけて壮図とかいちゃってんじゃないよー。
無窮の恨みって、敵に対する恨み言言っているんじゃないよ。あんたたちだって戦いを起こした側じゃん?官軍の兵士を殺しているわけじゃん?戦争はどっちも悪いんじゃ!

と思っていたのです。
共感できない詩を読むのは、なんかヤダ…。

でも、この「恨み」って官軍に対する恨みじゃないかもしれない。って思った時から、ちょっとこの詩に対する感じ方が変わりました。
「激しい戦いによって、自軍(薩摩軍)にも敵軍(官軍)にも多くの痛手があり、お互いに相手を恨む気持ちが生まれてしまった。良い国を作りたいと戦いを起こしたのに、どちらが勝つにしても結局お互いを恨む気持ちが残るだけで、理想には向かっていない。自分たちはこんなことを望んでいたのだろうか?」って気持ちなのではないか、と。
単に敵を恨む詩ではなくて、もっと高い視点から状況を見ていて、戦いでは恨みが生まれるだけで、本当に望んだこと(理想とする国を作る)には向かわないということに、失望しているんだな~と。
「落花を見る」の落花に重ねられていたのは、自分たちの粗削りで短絡的な戦という手段で理想の国を作ろうという情熱とその未来のなさ、だったのかなあと。
そう思って読むと、この詩と佐々友房氏に少し近づける気がしました。

佐々友房氏は、この田原坂の戦のあと薩摩軍が負けて投獄されます。そこで、自分の理想とする国を作るには戦いという手段ではだめだ。教育が必要だ。と強く思ったんだと思います。だからその後、教育と政治の分野で活躍していくのでしょう。
真摯に尊王攘夷の思想(皇室中心、国家主義)での理想の国づくりを願った人だったんだなと感じます。

尊王攘夷の考え方は、私自身はなんだか好みません。それも内容をよく分からずに印象だけでそう感じているだけなのですが。
ですが、佐々友房さんは、私個人は好かない考え方ではあっても、信念をもって理想を追い求めた人なのだと思いました。

そう思うと、結句の「馬を断橋に立てて落花を見る」に、より気持ちが込められる気がします。
戦に負けることであると同時に、自分の正しいと思ってきたものが崩れる失望、そんな「落花」を吟に込めたいと思いました。

おまけ

尊王攘夷は好まないと言いながら、その後期水戸学の代表者徳川斉昭の詩「弘道館にて梅花を賞す」が、実は大好きな私(笑)

吟詠動画


私の習っている流派とは違うので、題名や読みが微妙に違ったりしていますが、かっこいいのでご紹介。詩吟ってこんなもんです、ってことで。



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