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寺嫁お京の葛藤と向き合う場〜常例法座を通して〜

こんにちは、寺嫁お京です。

冬季は日照時間も短く、お年頃の寺嫁お京は女性ホルモンさんもいたづらして、なんとなく鬱々としておりました。春の訪れが待ち遠しいです。

あぁ、しかし春とともに花粉症もやってきますね…。
…生きてるって感じですね。

ということで、この度は常例法座についてお伝えしたいと思います。

常例法座とは

自坊(所属するお寺)では、毎月2日(1月を除く)に常例法座じょうれいほうざ(浄土真宗の教えに触れる場)を行っています。
宗派を超えてどなたでも参加できます。

お下がりのお花でお出迎え

10時半開始
お勤め(お経を唱える)
聴聞ちょうもん(法話を聴く)
恩徳讃おんどくさん唱和

12時終了
御斎おとき会食

という流れで行っています。

コロナ禍前まで、法話中はご婦人方とともに御斎を作るために厨房に入っていたので、お聴聞する機会がなかったのですが、
コロナ禍でお弁当を外注することで私にもお聴聞の機会ができることとなりました。

外注のお弁当たち


寺嫁お京にとっての常例法座


私自身、結婚してからほぼ初めて浄土真宗の教えに触れました。(学生時代は、暗記程度で意味理解はしていませんでした。)
法話をされるご講師は、そんな私でも理解できるような内容でお話をしてくださいます。

今回の法話の大きなテーマは、「仏とは何か」というところでした。

私ごとにはなりますが、
結婚前までほとんど無宗教の感覚で生きてきたものですから、(自覚としては)突然人生に現れた「阿弥陀様」の存在を疑っていました。

「阿弥陀様って・・・いるの?」と。

その一方で、毎日のお勤めで手を合わせ
「南無阿弥陀仏」を唱える私。

そんな相反する自分の姿を通して、
こんな信仰心が浅い私が坊守なんて務まるのかしら・・・と、モヤったまま数年経ちました。

お話中にご講師は、ご自身の子どもさんが自分のことを
「ねぇねぇお父さん」
と呼ぶことに喩えてお話しされていました。

子どもがなぜ私を呼びかけるのか。
なぜなら、私がそこにいるから。

「南無阿弥陀仏」というてるなら、それは
「仏様が今ここにいる」
ということだ、と。

いなければ、手を合わすことはない。
いるから手を合わせるんだ。
ということは・・・いるんですね。

また、
常に他者からの支えに目を向けて感謝を持って懸命に生きる青年のお話をされていました。

お話を聞きながら、私は
「はぁ・・なんて素晴らしい青年だ。それに比べて私は・・・あれ嫌だ、これ嫌だと不満を並べ・・・。もっと誠実な人になれたらいいのにな・・・。」

自分のなりたい姿に気づきながらもそうなれない自分に辟易しているところへ

「いろんな人の支えに目が向かなくても、笑顔であっても、ムスッとしてても“ともにある”と言ってくださる阿弥陀様」

と、
え?見透かされてる?

というような救いの言葉をポッと投げかけてくれます。
至らなさを抱え落ち込む私に、
「一人じゃないよ」
と言われている気がするのです。

こうやってお話の中で、教えを伝え聴き、自分の葛藤と向き合うことができます。

お聴聞は、自分の中の絡んだ糸(思考)を一本一本ほぐしてくれる大切な時間になっています。

寺嫁お京が思う常例法座の意義

常例法座には、毎回15名前後の方が来られます。
人数で計るものではないのですが、これほどの方が毎月仏法に触れてくださることは教えを継承していく身としては非常にありがたいことです。
中には、お仕事を引退されて、様々なお寺の法話の機会に参加されている方もおられます。

それだけ、人生をより良く生きたいと願われている方がいらっしゃることの現れだと思います。

人にはそれぞれの人生の物語があり、同じ時間をともに過ごしてもその背景は異なります。
常例法座に来られた方々、それぞれの葛藤は異なるわけで、心に響く言葉や考えさせられる言葉もそれぞれで異なると思います。

しかし、同じ空間で同じお話を聞き、それぞれが絡んだ糸を解きほぐしていく時間をともに過ごすことができます。
この時こそ、立場や年齢、性別、環境などの壁がなくなっている時間なのではないかと感じます。

「布教」というイメージよりは
困った人、悩んでる人を仏法をもってどうにか楽になるようにしてあげたいというご講師の思いがあるような気もしてます。

まとめ

ご近所のお寺さんで
「常例法座」
という文字を見かけたら是非一度聴かれてみてください。
(まとめになってないですがw)

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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