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35年前のJ1は、こんな感じでした【監査ガチ勢向け】

2024年2月22日、日経平均株価がとうとう史上最高値を更新しました。これまでの最高値は35年前の1989年。これ、何の年だかご存知ですか? 実はてりたま青年が監査業界に入った年なんです。


監査法人で30年強、うち17年をパートナーとして勤めた「てりたま」です。
このnoteを開いていただき、ありがとうございます。

早速本題に入りましょう。


受験生時代とJ1時代

てりたま青年、公認会計士試験に挑む

大学1年の終わりからTAC大阪校に通いはじめて、簿記の知識ゼロから会計士の勉強をスタートしました。

当時の会計士試験は一次、二次、三次とあり、一次試験は大学の教養課程を修了していれば免除。
二次試験が今でいう論文式試験で、これに合格して監査法人に入社します。
三次試験は今の修了考査。当時は国家試験で面接試験もありました。

二次試験の科目は、簿記、財務諸表論、原価計算、監査論、経済学、経営学、商法。
短答式はなく、選択科目も科目合格制度もなく、これら7科目を全部受けて合否が決まる、分かりやすい制度でした。

1989年8月、大学3年生のときにはじめて二次試験に臨むわけですが、まったく歯が立たなかったわけではないものの、合格した手応えはさっぱりありません。

会計士を目指したきっかけや、二次試験当日のことは会計人コースWebに寄稿しました。

てりたま青年の就職活動

当時はBig 8の時代です。
日本では大手法人4社と「外資系」4社。
「外資系」と言っても日本の公認会計士が設立した日本の監査法人です。グローバルのネットワーク主導で設立された経緯からそのように呼ばれていました。

大阪で就職しようと思っていた私は、8社のうち6社の就職説明会に出席。

当時は大手法人間でも違いが際立っているように思いました。
大手クライアントが多いことをアピールする監査法人。
楽に働けることをアピールする監査法人。
給料が高いことをアピールする監査法人。

バブル華やかなりし当時は、監査業界も空前の売り手市場。
各社のリクルート活動も過熱気味です。
週刊誌AERAで「札束がとびかっている」などと特集が組まれました。

私自身は、当時から海外志望だったので、海外に行けるチャンスが一番大きそうな監査法人にしようと一社を心を決めました。

合格から入社まで

そして、運良く合格
合格発表日のことは、以前のてりたまnoteにも書いています。

当時は、合格発表があると各監査法人から電話がじゃんじゃんかかってきて、意中の監査法人に「お願いします」というシステム。
幸いにも合格し、電話が鳴りっぱなしになりますが、肝心の監査法人から連絡なし。心配していたところ、時間をあけてようやくかかってきて、「思ったより合格者が多かったので、早く締め切るかもしれませんよ」とつれない感じでした。

あわてて「お願いします!」と意思表示をすると、まずは当日事務所に来るようにとのこと。
スーツに着替えて行くと、応接室に通され、人事担当パートナーが出てきて「おめでとう!」と握手。
そして「支度金」と書いた封筒を手渡されます。あとで見ると10万円入っていました。

当時は面接がなかったんですよね。合格者をさらにテストするという発想がなかったんだと思います。
パートナーになってから、就職氷河期の厳しい面接も経験し、環境が違うとはいえ自分のときとの差に心が痛みました。

新人研修と実務補習所

何とか希望していた監査法人にすべりこめて、新人研修がはじまります。
誰も知り合いがいない、アウェーな中でのスタートでしたが、同期とはすぐに仲良くなりました。
私ともう一人いた大学3年生が最年少で、年上の皆さんにかわいがってもらった、というところです。

ほとんどの新人研修は大阪でありましたが、1泊の全国研修が箱根でありました。
最初に全国の新人が一人ずつ前に出て自己紹介。当時、「24時間戦えますか」というドリンク剤のコマーシャルが流行っていて、東京事務所の数名が「24時間戦えます!」と自己紹介。
時代を感じさせますが、関西出身の私としては「ネタがかぶったら、ほかのネタに変えないと」と違うところに引っかかっていました。

実務補習所のことは、はじまる前からとても心配でした。
まぐれで合格したと思っているので、実力で合格した人たちに交じって授業についていける自信がなかったのです。

はじまってみると、寝ている人はいるわ、中抜けするわ、試験でカンニングもあるわ。
落ちこぼれる心配は不要でしたが、大学よりもひどい状況に驚きました。
このような我々先輩の所業によって補習所がどんどん厳しくなりましたので、今の補習生の皆さんには申し訳なく思っています。

てりたま青年、クライアントへ往査する

新人研修が終わり、現場に配属可能となりましたが、私は同期のなかで最後まで声がかかりませんでした。
アサインのない新人用に「自習していなさい」と研修室があてがわれていたのですが、とうとう一人ぼっちになってしまいます。仕方なくそこにあったテレビで、ファンでもない野球チームの日本シリーズを見ていました。

ようやくアサインされ、意気込んで臨んだ初往査で空回りしてしまいます。

このあたりのことも以前のてりたまnoteに書いています。

先の会計人コースWebの記事の中で、上場準備会社で実査すると10円足りなかったという話をしていますが、同じ会社が経過利息を計上していなかったので、計算方法を説明すると喜ばれました。

一方で同時期にアサインされていた大企業の方は、クライアントとマネジャーが現場で話していることが高度すぎてほとんど理解できません。
J1のときに両極端のクライアントを経験できたことは、とてもよい勉強になりました。


1989年はどんな年だったのか?

最後に1989年は何が起こった年だったかをざっと振り返ります。
若い方々にとっては単なる歴史的事実なので、ほとんど私と同世代の人たちむけです😊

  • 1月7日 昭和天皇崩御、昭和から平成に変わる

  • 2月9日 手塚治虫死去

  • 4月1日 物品税が廃止され、消費税スタート

  • 4月27日 松下幸之助死去

  • 6月4日 中国で天安門事件勃発、民主化を求めるデモを人民解放軍が鎮圧

  • 7月23日 未公開株の贈収賄を中心としたリクルート事件で政界が揺れる中、参院選があり自民党大敗

  • 10月31日 三菱地所がアメリカのロックフェラー・センターを買収、日本企業の台頭を象徴する出来事に

  • 11月10日 東西ドイツの往来が自由になり、ベルリンの壁崩壊がはじまる(そのほか、東欧諸国で共産主義から脱する動き)

  • 12月1日 「セクシャルハラスメント」が新語大賞に(流行語大賞は「オバタリアン」)

  • 12月29日 日経平均株価が史上最高値の38,957円44銭(終値38,915円87銭)を記録


おわりに

日経平均株価の最高値更新から、これまで最高値だった1989年のことをいろいろ思い出しました。

その翌年、1990年から失われた30年がはじまります。2024年からは明るい30年になってほしいと切に願います。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この投稿へのご意見を下のコメント欄またはX/Twitter(@teritamadozo)でいただけると幸いです。
これからもおつきあいのほど、よろしくお願いいたします。

てりたま

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