見出し画像

【Zazen Boys@Osaka Nanba Hatch 3.10 2024ライブレポ・エッセイ】ランジャタイ国崎が言ったように、向井秀徳の音楽と言葉は同時だった

 東京から大阪行きの高速バスに揺られている。昼行便。約九時間。

 金がないから新幹線は避けたい。でも深夜バスだと、次の日のダメージがでかいから、昼のバスを取ってみた。予約を取った数週間前はガラガラだったのに、乗る直前には満席だった。みんな、金はないが、時間はあるため需要があるのだろう。二階建てのバスの二階席だったから、走行中は色んな車を上から見下ろせて楽しい。
 青空の下、国会議事堂を通過した時、東京という土地とも、もう十年ほど深かったり浅かったり、妙な関わり方をしてるけど、案外、国会を生で見たのは初めてかもしれないと思った。

 何のために大阪へ行くのか。ZAZEN BOYSのライブを観に行くためだ。
 近場で行けるなら行きたかったけど、行きたいと思った時には東京のチケットは売り切れていた。日程と距離を鑑みて、観光がてら大阪に行くかあと思った。ライブは行きたい時に行くべきだ。せっかくなので、バスに揺られながらイヤホンでZAZEN BOYSの最新アルバム『らんど』を聴きながら向かう。向井秀徳の、ラップでもポップでもないロックが耳へと流れてくる。

「向井さんの音楽を聴いた時に、同時に来るんですよ。言葉も匂いとか色とかが。それが初めてだったんで」

 ランジャタイの国崎和也が、声をぴょんぴょんと弾ませながら向井秀徳へと告げた。講談社が運営するMETA TAXI(メタタクシー)というYouTubeチャンネル、奇天烈イリュージョン漫才師と、オルタナティヴロックシンガーという異種格闘技、二人の対談(#15〜#17・#20)だ。
 国崎は向井の昔からのファンらしく、ライブに足繁く通っていたが、対等な立場として二人は初対面だった。国崎が向井に一方的なラブコールを送っては、冷たくあしらわれていた中での一節(#15 20:57付近)だ。
(今現在、国崎の右片眉がないのは、憧れの向井に会えた喜びからの延長らしい)

 音が、匂いと共に言葉と同時にやってくるってどういうことだろう。その感覚を知りたいから、ZAZEN BOYSのライブに行こうと思った。
 
 ランジャタイ国崎和也について、漫才を観たり、

エピソードトークを聞いたり、

エッセイを読んだり、

と、その芸風やルーツを知るたび、インプットがすごく共感覚的だと感じている。共感覚というのは、視覚で色、聴覚で音、味覚で味、という一対一の結びつきではなくて、景色を視覚で感じた時に、たとえば色を認知すると同時に音や匂いを感じるように、本来なら結びつきにくい二対一以上の感覚がくっつくような感知の仕方、らしい。自分に共感覚はないので、聞き伝えでしかわからない。世界の感じ方の話だから。

 共感覚を持つ人と言われて、ぱっと浮かぶのは宮沢賢治なのだけれど、彼は色の煌めきが色んなものと深く結びついているというか、語られるその情景は、どれもきらきらと浮かびあがっているなあと感じる。

 川の向う岸が俄に赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のように赤く光りました。まったく向う岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたそうな天をも焦がしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしく酔ったようになってその火は燃えているのでした。

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』

 これは宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の蠍の火の描写だけど、何よりも最初の知覚に、光の色が来ている気がする。その光に誘発されるように、熱とか匂いとかが、賢治の中に一気に注ぎ込まれているような感じを覚える。

 この前、『ウソカマジカ』という、ウソとマジを交えたエピソードトークをするインターネットの番組で、「学校」というトークテーマの中で、国崎はこんなことを話していた。

「中学校の帰り道、友達と(今はダメだけど)2ケツしてて。坂シャーって行ってたら、山道の、ガードレールないとこを、ファーっと結構スピードいってたら、ツルンって前輪やっちゃって。そのまま崖に、ガラガラガラガラガッシャン! ガガガガズザザザザ、いててててって落ちて。大丈夫!?って言って、大丈夫大丈夫って。カラカラカラッって、自転車が、前輪カラカラって……

 それを聞いた時、国崎にとって、危機に瀕して起き上がって、まず飛び込んで来るのは音なんだな、と知った。芸人としてエピソードトークを語る上で、中学生の一場面を思い出した時、自転車の前輪が空回る描写を入れるの、あまりにも巧みすぎる。どこか小説的だし、落語的だ。こうやって文字に書き起こしてみると、擬音が多くて面白いなとも思う。

 そんな感じの描写が、国崎のエピソードトークや漫才によく出てくるから毎度感心するんだけれど、彼は小説を全く読まない——正しくは読めない、らしい。本を読もうとすると文字が滑って、頭の中に入ってこないと言っていた。言葉よりも色や匂いの方が先に来るらしい。
 国崎にとっての言葉はまどろっこしいもののようだ。テレパシーがあったら便利でいいと思っていたらしい。子どもの頃、友達に「どうしてこれ(言語)なんだろう?!」と聞いたら、「でもその説明も! 日本語だけどね〜!」言われて喧嘩になった話は、すごく国崎らしいなと感じる。

 人の言葉や文字を取り逃して、ぼけっと生きてきた国崎少年は、先述したように、向井秀徳の音楽を聞いて、初めて言葉を理解したらしい。音と同時に言葉が来たからだ。向井秀徳は、笑わせるために歌詞を書いたり音を作ったりしているわけではないけれど、しつこいほどの反復とか展開の突拍子のなさとか、国崎の芸風に色濃く影響を与えている気がする。

 向井秀徳のことは、彼が以前結成してたバンド、ナンバーガールの再結成辺り、五年ほど前に知る機会(『ロッキンユー!!!』という漫画での引用)があった。知る人ぞ知る、オルタナティヴロックの神様らしい。その際、ナンバーガールの向井秀徳の音楽を一度聴いてみたのだが、自分の中にはMr.Childrenとか、ぬゆりとか須田景凪とか、確固たる音楽の好みが既にあったので、それとは明らかに違うものであることはわかったが、既存の好きをブチ壊すほどの衝撃はなかった。ぶっちゃけ、音源ではほとんど歌詞が聞き取れなくて、よくわかんなかった。
 あの時の自分は、殊更、言語優位のまま闇雲に文章を書きまくっていた頃だったから、音と言葉が同時に来る感覚を捉えられなかったのかもしれない。あの時、理解できない自分がいたことが、向井秀徳の音楽の特異性を裏付けている気がする。

 もう五年が経っていた。その向井秀徳のエッセンスを深く得た、明らかに言語優位でないランジャタイの漫才が好きになった今なら、音と言葉が同時にやってくる、その感覚を味わえるんじゃないか。

 そんな期待があった。

 向井秀徳は酒を飲みながら歌うそうだ。実際、国崎と向井のラジオ対談の際も、二人は互いに酒を飲み交わしながら話していた。
 だから、彼に今できる最大限の敬意を払いたくなって、ライブ前に、会場近くのエビスバーでビール二杯、お湯割りウイスキー、梅酒ロックを飲み干した。酔いとしてはまあまあだ。己の肝臓の強さと引き換えに、分解のためトイレが近くなるので、いつもライブ前はあんまり酒を飲まないようにしてるのだが、今回は昼から早めに飲み始めることで事なきを得た。スタンディング・ワンドリンクだから、どうせ会場でも一杯は飲むことになる。

 酒を片手に歌うミュージシャンに対し、酩酊のまま酒を片手に聴くことは、なんだか正しいことのような気がした。乾杯だ。高揚した気分で、なんばの街を闊歩し、ライブ会場に向かう。心なしか、イヤホンから聞こえるギターの音が強くなったような気がした。
 会場入りして、チケットを切る。ワンドリンク、ハイネケンか氷結レモンか、氷結グレフルかを選べたので、氷結レモンを一缶握った。入場は遅い方だったが、群衆の中を縫って進むと、左端の柵、凭れかかれるところに上手いこと位置取りができた。

 センターマイクまでの直線の視界に、運良く人の頭はない。なんばHatch、ハコのキャパも二千人もない。ステージまで十メートルほどだろうか。肉眼でしっかりと、表情まで捉えられる距離だ。
 尿意は気になるところだったが、最悪スタンディングだから出てトイレに行けばいいだろう。(結局一度もトイレには行かなかった。尿意など感じる余裕など貰えなかったとも言える)缶チューハイ、プルタブに指を掛け、パキョンと開けた。間の抜けた銃声のような音だ。一口だけ、口を付ける。

 途端、ステージが光った、と思ったら消えた。右側の観客から拍手と笑い声が上がる。自分がいるのは左端だから全く見えなかったが、その時、下手側の舞台袖で、向井秀徳が缶ビールを片手に無言で観客席を見つめていたらしい。

 間もなくして、颯爽と向井秀徳が現れた。照明を眼鏡が反射したおかげで瞳は見えず、白髪まじりのオールバックのおかげで、広いおでこが露わになっている。一見、マジでただの五十路のおじさんだ。もちろんその手には、銀色の缶、酒がきらきらと輝いていた。銀なら、アサヒビールだろうか。
 ギターのカシオマン、ドラムの松下、ベースのMIYAも続く。向井秀徳は、酒を一口煽ってから置き、ギターを体に潜らせて、フロントマイクに口を近付ける。

「オオサカシティ。MATSURI STUDIOからやってまいりましたZAZEN BOYSです」

 さっきまで酒を掴んでいた、その指がチューニングを施す。ギターがキィンとひずんだ音を立てる。
 そして、向井秀徳は何気なく弦を弾いた。

 瞬間、音が全部を貫いた。

繰り返される諸行は無常
それでもやっぱり蘇る性的衝動

ZAZEN BOYS『DANBIRA』作詞:向井秀徳

 かき鳴らされる二本のギターに合わせて、ベースのMIYAの髪の毛がブンブン暴れる。ベースが、ドラムが、手を伸ばしてこっちの心臓を鷲掴んだ。拍動が、音に奪われてしまった。今、この心臓は、外からの音圧に呼応して鳴っている。音に、動かされている。
 ただ、音が大きいからとかじゃない。
 このハコを、世界を、音が全部支配したのだった。

知ってる 全部全部知ってる 俺は知ってる
知ってる 俺は知ってる 全部全部知ってる

ZAZEN BOYS『DANBIRA』作詞:向井秀徳

 歌っている。向井秀徳は確かに歌っているのだが、メロディに歌詞が乗っているんじゃない。きっかりと一体化していた。もやは演奏の爆音で歌詞は、はっきりとは聞き取れないのだが、そんなことなど全く気にならなかった。歌詞を正しく聞いて言葉として捉えたいという思いはなかった。
 言葉が音で、音が言葉だった。

 むちゃくちゃだ。むちゃくちゃすぎるのに、理路整然ともしている。向井秀徳が急ブレーキを掛けるかのごとく、弾く手を止めた休符の瞬間、ギターもベースもドラムも、寸分もずれることなく止まる。そして、また鳴る。
 止まる。鳴る。
 止まる。鳴る。
 止まる。鳴る。
 鳴る。鳴る。鳴る!
 向井秀徳が背中を向けて、四人が向かい合って音を奏でる時、まるでひとつの化物みたいだった。それぞれがこんなにもバラバラに動いているのに、どうして四散せず、ひとつのものに見えるんだろう。

 ZAZEN BOYSの音楽を全身に浴びながら思ったのは、ひどく独善的だということだった。いつも聴くアーティスト、特に指すなら、Mr.Childrenのことだけど、ボーカル桜井和寿がいつも「僕の歌ではなく、あなたの歌になれたらいい」と言うように、ミスチルの曲は強い共感を誘う。もちろん桜井自身の意思や思いは宿っているが、歌詞は、聴き手が自己を投影できる余地を残して作られている。
 対して、向井秀徳にそのような擦り寄る気は皆無だ。向井秀徳という人間の、希釈されていない全てのもんが、そのまま鳴っている。だから、聴き手は一方的に揺さぶられ続けている。
 ただ、この支配は優しく、ひどく心地が良かった。

杉並の少年 歩いている
環八道路の向こう側
杉並の少年 笑っている
大宮神社の参道で
杉並の少年 はしゃいでいる
自転車のペダルを踏み散らす
杉並の少年 泣いている
ありきたりの風景

ZAZEN BOYS『杉並の少年』作詞:向井秀徳

あれはもう遠い昔の記憶
電線にぶら下がっていた紫色の天狗
不気味に笑ってケムリを吐き出す
天狗 天狗 天狗 天狗
天狗 天狗 天狗 天狗

ZAZEN BOYS『天狗』作詞:向井秀徳

真っ白けっけの雪の上に足跡がいっぱい
真っ白けっけの雪の上に足跡がいっぱい
真っ白けっけの雪の上に足跡がいっぱい
真っ白けっけの雪の上にたくさん残った足跡の先
塀と塀の隙間からじっと体丸めこっちを見ている
真っ黒けっけの野良猫が一匹

真っ黒けっけの
真っ黒けっけの
真っ黒けっけの
This is NORANEKO!!

ZAZEN BOYS『This is NORANEKO』作詞:向井秀徳

 全部全部、確かに見た、ほんとの景色なんだろう。向井秀徳の世界には、杉並の少年も天狗も真っ黒けっけの野良猫もいる。それを幻覚や妄想だと馬鹿にできないほどの、実在の音が、景色と共にやってきている。

 曲と曲の合間の、MC。向井秀徳はギターのカシオマンに向けて気さくに話しかける。
「ちょっとあなた、あの話、してくれない? 中学二年……、あ、この人中学中退してるのよね。宮崎の田舎で見た、あの」
 そこまで言った次の瞬間、ギターがジャキンと鳴り響く。
 ずっとそんな感じで、MCと曲の境界が極めて甘かった。その思い出話の続きは音で話す。だって、音は言葉だから。

 向井秀徳は歌ってる時、ギターを置くこともあった。大きくジェスチャーをしたり、手を叩いたり、指揮をしたり、天井のミラーボールを回すよう指示したり、あろうことか、新しい学校のリーダーズ『オトナブルー』でお馴染みの、首振りダンスまでノリノリでしていた。
 向井が、メタタクシーのラジオ(#17)で「私は、YUIの『CHE.R.RY』に惚れたんすよね。恋しちゃったんだ」と飄々と国崎に話していたのを思い出した。なんて通俗的なんだ。

 そして、向井秀徳は酒を煽る。飲み終わった缶が、乱雑に下手へと投げられる。僅かに残っていたビールが、キラキラと吹き出して放物線を描いた。スタッフが新たな缶ビールを運んでくる。

「MATSURI STUDIOからやってまいりましたZAZEN BOYSです」

 向井秀徳はMCの最初で、毎度同じような自己紹介を繰り返していたので、段々曲を重ねるごとに、始めに戻ってループしているような気分にすらなってきた。時間感覚すら麻痺してくる。飲み込まれていく。

「MATSURI BOYSからやってまいりましたZAZEN STUDIOです」
「MATSURIからやってまいりましたBOです」
「MATSURI BOYSからやってまいりましたZAZEN GIRLSです」

 と思ったら、名乗りすらどんどんふざけていく。どっと観客に沸いた笑い声に、向井秀徳は真面目な顔をして告げた。
「こういうの自己紹介はね、私とあなた方との信頼関係で成り立っております。……私は何もふざけておりませんよ」
 あ、そうなんだと、ふいに視界がじわりと涙で滲んだ。絶対泣きどころではないが、ぐさっと刺さった。
 独善的で支配の押し付けと、圧倒的なほどに肉薄した音圧。でも、向井秀徳は、心から真剣で、真摯にこちらへと気持ちを伝えようとしている。伝えたいと祈って。ここに来ているということは、その時点で対話だから。向井秀徳から告げられているのはそんな信頼だと、こちらも無垢に信じていいのだろうか。

 と思ったら、ドラムの松下の方を向き、スタンドから外したマイクのコードを持って、ぐるぐると円を描いてブンブン振り回し始めた。あっ、これ、なんだか国崎和也が漫才中にやりそうな所作だなとついつい笑ってしまった。
 流石に大阪になどいないだろうが、もしも見ていたら「このマイクのボケはまだやってないな」って、すぐにでも取り入れそうである。(漫才でよく使われる四角いサンパチマイクだと無理だけど)

 約二時間、二十三曲。全て矢継ぎ早で伝えたあとに、向井秀徳らはひらりと去っていく。舞台は暗転したが、観客からの手拍子は鳴りやまない。あんなにむちゃくちゃやっておいて、一回去って帰ってくるお馴染みのアンコールのくだりは、ZAZEN BOYSでもちゃんとやるんだなと、なんだかおかしくなった。

 すぐに酒を片手に帰ってくる。アンコールは三曲だった。始まった曲は『DANBIRA』で、本日一曲目と全く同じ曲だった。錯覚ではなく、本当にループしているのかもしれなかった。
 そして二曲目『永遠少女』が始まった。ZAZEN BOYS新譜アルバム『らんど』を初めて何気なく聴いた時、聴き流せずについ目をかっぴらいてしまった。ZAZEN BOYSに衝撃を受ける、きっかけとなった曲だ。

「探せ、探せ、探せっ、探せ探せ探せぇ!」
 向井秀徳の叫びが巡る。ぬるくなった酒を口にする。自分にとって、小さな祝杯だった。初めは音に呼応して、どくどくと鳴らされていた自分の心臓は、いつしか鳴りを潜めていた。自分の鼓動のペースを取り戻している。

 落ち着いてしまったということは、つまり、こちらは向井秀徳の叫びを受け止められたのか? そんな風には思えなかった。別に、向井秀徳に限らず、他人の気持ちなどわからず、他人の気持ちを身勝手に想像する自己がいるだけだ。
 わかりたいとかわかったとか、わからないとか、共感や投影したとかではなく、この場を同時に共有していることへの、実感だけを信じていた。

 今、ここにいる。確かに自分はここにいて、向井秀徳の表出するすべてを、視覚と聴覚と味覚と嗅覚と触覚で精一杯感じている。
 これが、生なんだ。
 人の気持ちも自分の気持ちもわからないけど、対面した生だけは信じられる。

 今日は来てくれてありがとう。またオオサカシティに来てもいいかな、と優しく感謝を告げた後、向井秀徳は言う。
「貴様に伝えたい。……俺のこのキモチを」
 次の瞬間、激しく美しく狂おしくかき鳴らされたギターサウンドに、何一つ疑う余地はなかった。
 音が気持ちだった。気持ちを音にすると、こうなるんだってわかった。国崎和也が称したように、向井秀徳の言葉と音は、同時で、同等で、同一だった。
 合間の歌詞は最中全く聞き取れなかったが、後で調べてみたら、ついついにやけが止まらなくなった。

伝達できん自分にハラが立つ
生まれ育った、その環境、歴史、
思想すべてブチ込んで、
表すことが出来ればいい
意味がわからん言葉で意志の疎通を計りたい

ZAZEN BOYS『KIMOCHI』作詞:向井秀徳

 野暮だよ。わざわざ言葉にしてくれなくても音が同じこと伝えてたよ、向井秀徳。
 ありがとう。ほんとにありがとう。
 ラスト『KIMOCHI』の後奏、我々に繰り返しコールアンドレスポンスを求めたくせに、そのまま観客の歌声を止めることなく、向井秀徳は颯爽と去っていった。

 大阪から東京行きの高速バスに揺られている。夜行便。十時間。

 大阪に一泊してもいいかと思っていたが、なんだかまだ夜を終えたくなかった。今からホテルにチェックインして柔らかいベッドの上で徹夜するよりは、高速バスの固い椅子に座り、エンジンの振動に揺られながら、この余韻に浸りたい。明日にダメージを引きずりたかった。

 ライブのセトリを作って、繰り返し聴いた。ナンバーガールが好きな友人が、ライブバージョンの方がいいよと言ってた意味が、ようやくわかった。音源とはまるで別物だ。それでも、白昼夢のようなライブの記憶をどうにか引き摺りおこしながら、深夜バスの中でこの文章を書いている。

 あんなにも言葉にならないと感じたのに、それを言葉にしようとしている。それは野暮であり、固定であり、不自由であり、呪いであり、傲慢である。
 それでも、向井秀徳の伝達手段が音であるように、自分にとっての伝達手段はこれだから、書きたいという衝動を否定したくはなかった。
 傲慢さを握りしめてでも、伝えたい感動があった。それは、とても幸せなことだろう。
 行ってよかった。聴けてよかった。知れてよかった。

 書けてよかった。

 向井秀徳を好きになるきっかけを作ってくれた国崎和也に心底感謝しながら、SNSでライブの感想を漁る。向井秀徳のパフォーマンスは、いつもの奇行としてたくさん呟かれていた。
 ひとしきりくすくすと笑って、戻ったホームのタイムライン、向井秀徳好きのフォロワーが不意に引用したのは、Matsuri Studioの公式アカウントの投稿だった。

 その写真を目にした瞬間、息が止まった。

 「Zazen Boys@Osaka Nanba Hatch 3.10 2024」という言葉と共に、一枚の写真がある。
 ライブを終えて仲良さげなZAZEN BOYSのメンバー四人、を押し除けて前列で映る、一人。

 片眉のない国崎和也だった。
 
 見ていたのか。あなたも、あのうねりの中に、いたのか。

 あなたのおかげで興味を持って、行こうと思ったんだ。
 向井秀徳のつくったあの美しい空間を、自分は今日、生まれて初めて浴びたんだけど、これを、国ちゃんも一緒に共有していたのか!

 ここにいた。向井秀徳も国崎和也も自分もここにいて、同じ空間の中で、視覚と聴覚と味覚と嗅覚と触覚で精一杯感じていた。
 これが、生なんだ。
 対面した生だけは信じられる。あなたは生きていた。

伝達できん自分にハラが立つ
生まれ育ったその環境、歴史、
思想すべてブチこんで
表すことが出来ればいい
意味がわからん言葉で意志の疎通を計りたい
犬猫畜生と分かち合いたいのだ
貴様に伝えたい 俺のこのキモチを
伝えたい 伝えたい
貴様に伝えたい 俺のこのキモチを

ZAZEN BOYS『KIMOCHI』作詞:向井秀徳

 書き終えた時、夜行バスの閉じたカーテンの隙間から覗く空は白んでいた。バスを降り、今、東京の新宿駅に立つ。つい、新宿都庁を探してしまう。
 ふと、また向井秀徳に会えたのなら、国崎和也はこれから眉毛をどうするのだろうと考えた。また、生やすのだろうか。それとも。
 イヤホンからの音は鳴りやまない。
 青い朝の空気を全身で感じながら、私は歩き出した。

エッセイタイトル『This is YOURLIFE』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?