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#1386 「二項対立の脱構築」の脱構築

教育を語るときは「二項対立の脱構築」を意識することが重要だ。

例えば、現代の学校教育において、教師が主導で進める「一斉授業」がより多く行われている。

これは、一人ひとりの子どもに応じた「個別学習」と対極的な位置に置かれ、プラスの側面が重視されるからこそ、より重視されている側面がある。

一斉授業がプラスであり、個別学習がマイナスであると捉えられている。

一方、個別学習の方を重視する考え方も存在する。

一斉授業を徹底的に否定し、個別学習信者としての実践を繰り広げる。

このような「一斉授業か個別学習か」という二項対立の問題を、脱構築しなければならない。

それは「どちらか一方が優れている」「どちらか一方に決定する」のではなく、どちらにもプラス面とマイナス面があることを認め、宙づりの状態で留保することである。

このように、どちらか一方を絶対視する「同一性」ではなく、両者の違いを認める「差異性」を重視するのである。

現に、一斉授業と個別学習にはそれぞれメリットとデメリットが存在するので、一概に「こちらがより優れている」とは言えないのである。

どちらか一方を絶対視するのではなく、宙づりの状態で留保し、差異性を認め、決定可能性を残しておくのである。

ここまでの話が「二項対立の脱構築」である。

これは「同一性」と「差異性」を二項対立で考えたとき、「差異性」の方をより重視する考え方である。

さらにここからは、この「二項対立の脱構築」を脱構築する話に移る。

その方法は2パターンある。

まずは1パターン目。

先ほど出た「同一性」と「差異性」をさらに二項対立にし、いったん「同一性」に舵を切るのである。

つまり、「一斉授業が絶対である」と仮決定するのである。
※もしくは、「個別学習が絶対である」というように。

このように、二項対立の一方を仮に絶対視することを「仮固定」や「仮構」と呼ぶ。

しかし、ここで終わってはいけない。

二項対立の一方を「仮固定」や「仮構」のように仮に絶対視すると、必ず選ばなかったもう一方の良さが浮かび上がる。

これにより、「仮固定」や「仮構」がさらに差異化し、変化していくのである。

例えば、「一斉授業が絶対である」と「仮固定」「仮構」とした場合、「個別学習」の良さが浮かび上がり、両者の差異が交じり合うことで、最初に絶対視した一斉授業の在り方が変容していくのである。

これは「個別学習が絶対である」と考えた場合も同様だ。

次に2パターン目。

これは、「同一性」の方に完全に舵を切る考え方である。

例えば、一斉授業を「絶対的真理」として絶対視することである。

しかし、ここで終わらない。

このような絶対的な実在は、そのままの在り方で存在し続ける必然性はないと考える。

このような絶対的な実在は、いつでも全く別のものに変化する可能性をもっていると捉えるのだ。

例えば、「一斉授業」という実在は、時代の流れで偶然に出来上がったのであり、時代が変わればそのような手法は概念的に別の存在になり得る可能性があるのである。

これは、二項対立で対極に位置する「個別学習」においても同様のことが言える。

以上の2パターンが、「二項対立の脱構築」の脱構築の方法である。

二項対立を宙づりの状態で留保するという「二項対立の脱構築」では、話が曖昧で抽象論で終わり、先に進まないことが多い。

そこで、その構造自体を脱構築する必要がある。

そのためには、
①「同一性」と「差異性」をさらに二項対立にし、いったん「同一性」に舵を切ることで、「仮固定」「仮構」を生み出し、両者の差異化により、「仮固定」「仮構」をさらに変化させていく
②一方の考えを「絶対的真理」として絶対視するが、このような絶対的な実在は、いつでも全く別のものに変化する可能性をもっていると捉える
ことが重要なのである。

「教育」を語るときには、「二項対立の脱構築」をし、さらにその構造を脱構築するように試みてみよう。

なぜなら、教育という複雑な営みに「絶対的真理」は存在しないのだから。

では。


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