2023.3.20 春分 お前はどこだ。

 昔からお母さんに怒られたり、友だちを怒らせると「お前は誰だ、なにがしたい」「お前自身はどこにいるんだ」と責められているようで、空っぽな自分を見透かされている気がして怖かった。じっとしていると自分が空っぽだとバレそうで、全てが怖くて、いつも誰かの真似をして、いろんなところから誰かの情報や意見を寄せ集めて、その中から正解を探していた。「お母さん、ごめんなさい」と手を振り上げる母の足に縋りついた5歳のころも、反省なんかしてなくて、母の怒りが収まる言葉や態度を探していた気がする。

 「自分」を持っていないのは恥ずかしいことで、それを隠すためにいろんなところから情報やら態度の寄せ集めを自分自身だと思い込み、正解を選びながら歩むことが人生だと思っていた。世界の寄せ集めであるわたしの正解は、常識という名の正解のはずだった。いろいろあって10年近く限られた人たちの中で過ごすことになり、寄せ集めの塊でいる必要のなくなったわたしは、空っぽのままふわふわと世間の片隅に棲息していた。
 ここ4.5年は徐々に人との関わりを持つようになった。客観的に自分を眺めてみると、人との関わりが多いときほど外から寄せ集めて自分を作っているような違和感を感じる。寄せ集めた何かはわたし自身ではなく、どこかの誰かからの借り物なのだと、状況や感情に振り回されるたびに気がつく。40年以上染みついた癖はそんなに早く抜ける訳がなく、腑に落ちるまで何度も違和感はやってくる。違和感に気がつくたびに立ち止まり、集めた何かを恐る恐る捨ててみる。格好悪くても、空っぽで何もできない自分に戻ってみる。人とぶつかり、胃を痛めながら自分にできることを探すのだ。そうしてわたしは世界の全てが怖かった小さな頃に戻り、空っぽのまま前を向く。

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