2024.3.15 自らに由る

 仲谷史子先生の文章講座に行ってきた。史子先生はカウンセラーではないが、長く心理学の勉強をされている。今回はペルソナシャドウの話だった。リフレーミングという技法を使って、他の参加者の禁止令を再定義しているとき、「わたしも自由になりたい」と口から言葉がこぼれた。
「けっこう自由に見えます」と史子先生が笑う。
そうなんですよねーと返しながら、子育てや家族からは逃げられないと丹田あたりに力が入る。そんなに育児が苦手ならなんで5人も産んだん?と内側から声がする。妊娠するたびに捨てられた猫の命は拾うのに、自分の子どもの命は捨てるのかと自問自答が繰り返された。自分の人生と子どもや子猫の命を天秤にかけた結果が子ども5人と猫4匹、今の暮らしである。賑やかなのも人も物も多いのは苦手だが、子どもも猫もかわいい。

 今回の文書講座は本当に面白かった。ペルソナシャドウも面白かったが、参加者のアンチコラムの課題が秀逸すぎた。どれも読み応えがあり、内容が深く考えさせられるものばかりだった。彼らの文章から普遍的な問いや生きかたが滲み出ている気がした。わたしもあんな風に書きたいと思わずにはいられない。

 ずいぶんと回り道をしてしまった。話を戻そう。
夜、旦那氏がわたしの読んでいる本をパラパラとめくりながら「字が小さいのによく読むな」と呟いた。いやいや、昔の本はもっと字が小さいねんでと言いながら本棚から目についた古そうな本を取り出した。手にとったのは母にもらった「鈴木大拙随聞記 」(志村武著)で昭和42年初版本だった。字の大きさを比べるために適当に開いたページは「アイ・アム・ザット・アイ・アム」と書かれた章で、どこかで聞いたことのあるフレーズだった。目が本の文字を追う。話の途中で手を止めて本を読み始めたわたしの横で旦那氏はテーブルに散らばった本を重ねはじめた。

 自分が自分の主人公になるということは、自由になるということにほかならない。そして、人間の本質はその自由に根ざすものであるといえる。
(中略)
「西洋の"Liberty"や"Freedom"は、何かからまったく離れるということであって、離脱するという意味になる。圧迫を受けたものに対しての政治的な意味があったといってもよいだろう。東洋でいう自由にはそういう消極的な意味はないんだ。積極的に自ら然りという意味だ。東洋の自由は、自らに由るということなのだから、自然という言葉と少しも意味が変わらない。木が生えたり、人間が食べたり、寝たりする、そういうことを自由というのだ。(後略)」

鈴木大拙随聞記 志村武著 117p
日本放送出版協会

 このあと著者は1776年のアメリカ独立、1789年のフランス革命に影響を与えたルソーの本から「人は生まれつき自由でありながら、いたるところで鉄の鎖につながれている。一人の人間は自分を他人の支配者であると考えているが、その他人よりも多くの奴隷状態にとどまっている」と引用している。鉄の鎖からの解放が西洋的自由ということなのだろう。
 ルソーの言葉で足にひんやりと重いものを感じた。鉄の鎖につながれた足首が見える。わたしを縛るのは子どもたちと母親業だ。わたしは鉄の鎖から解き放たれ、自由になることを夢見ている。だが、わたしを支えているのも子どもたちだ。わたしは子どもたちに寄りかかりながら、母というペルソナを纏い、子どもたちを通して半ば強制的に世間や他者と関わり続けている。これを自ずから然りと言えるのだろうか。わたしの世間や他者との関わりはお世辞にも積極的とはいえない。母親は自分勝手に生きてはいけないとシャドウが叫ぶ。
I am that I am!
わたしは怒りながら鉄の鎖を引きちぎり、行きたい場所へ行き、師から学ぶ。そしてまた子どもたちの元へ帰る。予定とタスクに追われる毎日の中で、猫のように自らに由ることができたらいいなと思う。

こちらが字の小さな鈴木大拙随聞記
最近のハードカバーの単行本よりひと回り小さい
お値段 ¥380!

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