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リベンジ・アフタートーク幻肢痛

「何かしらのこだわりがある人が、その何かしらのこだわりを持った行動をやり続ける」ところに美しさのようなものが確かに存在していて、一見意味がないように見えても、ただ他人には伝達不可能だというだけで、そこにはちゃんと意味があったりする。


架空カンパニーあしもと、旗揚げ公演「幻肢痛」のアフタートークの大役を仰せつかった。
自分なりに割と真剣にその役目も考えた。僕は、アフタートークの役目とは解説やわかってもらうことではなく「作品を思い出してもらうきっかけを、作品自体とは違う角度でたくさん渡すこと」だという結論に至った。
だからある意味、答えを言うのではなく「とっ散らかして帰ろう」と考えていた。良かれと思って。

アフタートークの出演は僕は初めてで、個人的にもものすごくいい経験をさせてもらったと思う。
ただ、やはりその場で編んだ言葉では正確ではなかったためのくやしさと、「いやいくらなんでもとっ散らかしだろう」という半ば反省、半ば自分でウケている気持ちがあるのも事実なので、アフタートークをやり直させてもらうことにした。

それでは、幻肢痛を見た方にも是非あの時間を思い出してもらえれば。


「何かしらのこだわりがある人が、その何かしらのこだわりを持った行動をやり続ける」ところに美しさのようなものが確かに存在していて、一見意味がないように見えても、ただ他人には伝達不可能だというだけで、そこにはちゃんと意味があったりする。

例えば僕は、13歳くらいの時に平仮名の「ふ」「き」「さ」は縦の画を繋げて書く、「そ」は「Z」のように書かずに、上部分をカタカナの「ソ」のように分けて書く、と決めたことがあった。
数年前はユニクロの「このラインナップのTシャツしか着ない」と決めたこともあった。

別に意味なんてない。

いや、正確に言うと、あるのだが、どうもうまく説明できない。誰かに説明して反論されたとして、それにうまく言い訳もできない、それくらいの意味がおそらくあるにはある。

平仮名の書き方は子供の頃だったので完全にクセづいてしまい、逆にもう「き」「さ」を分けて書くという発想が出ない。「ふ」はともかく「き」「さ」「そ」に関してはかなり少数派な書き方だと思うが、普通に字を書いていて意識することはまったくない。
服装に関しては、現在は「白と黒の無地しか着ない」というコンセプトで生き始めたのでそのころとは変わってしまったが、もはや自分が柄物の服を着ている想像をするだけですさまじい違和感がある。

何度も繰り返される「意味は解らないが何かきっとこだわりがあるのであろう演者たちの動き」を見ていて自分のそんな部分が思い当たった。

やはりパフォーマンスというものの魔力というか、舞台に上げるだけで「美しく」見えてしまう部分はある。それはいい意味でもあり悪い意味でもある。特に日常的に当たり前な動きや非常に小さい動き(一部のコンテンポラリーダンス等でよく見られたりする)を見ていると、「なんで日常生活の中での動きはパフォーマンスにならなくて、ステージに乗ればパフォーマンスになるんだ?」という思考がアーサー・C・ダントーの『ありふれたものの変容』で繰り広げられているような、禅問答のような思考がすぐに鑑賞を邪魔してくる。(自分も細かい動きや日常的な動きを舞台上に載せたいと思いながらその勇気がないので、、嫉妬は多分にあると思う。)
そして事実、幻肢痛の最初の15分ほどはまさにこの思考が頭の中で渦を巻いていて、ちょっと作品に「入れなかった」。

が、最後の方、出演者の一人の高田さんがマイクでしゃべりだし、高田さん以外全員がその「こだわりのあるであろう動き」を一斉にはじめたシーンで、突然それらの動きが「情報量の多いまま」に「背景」となった。その瞬間「あ、こういう画もアリなんだ」という空間が広がるような感覚が一気に来た。これは「音を主役にする」という構成の選択が上手かったと思う。音というのは画のように、目をつぶって遮断することも出来ず、身体や顔の向きを変えても聞こえてくる、視覚よりもまったく選択できない、「場を満たす全体的な情報」だ。

音が支配する空間で思い思いの動きが「背景として」繰り広げられる。

あー。あんま理解しなくていいんだ。

解放された気がした。そうすると、急になんか変な美しさがあるなと、「繋がった」気がした。愛おしい気持ちすら湧いた。
そう、意味なんてないし、理解しなくてもいい。けど、でもそれは「大事にしなくていい」ということではない。その人にとってはきっと大事なものだし、多分僕にもあって、だからか、よくわからないけど、美しく見えるから。

僕の『幻肢痛』の鑑賞の、プリミティブなクライマックスはここまでだ。


そしてここからは、後から「幻肢痛」というタイトルに寄せて考えたこと。。

僕は自覚している限りでは割と偏屈な方の人間だと思うので、上述の服装や平仮名の書き方以外にも割と様々な意味のないこだわりを持ってきて、そして多分、失ってきた、はずだと思う。エレクトーンをやっていた時の指の置き方のこだわりなどはエレクトーンをやめたら覚えているはずもないし、子供のころに好きで作っていた食玩のプラモデルを作る時にも何か意味のない順番を持っていた気がする。例えばパソコンが高性能になってそもそもやらなくなった行為なども多くあるだろう。だが、多くは覚えていないのだ。
そのこだわりは多分「どうでもいいけど割と重要な、僕を構成する一部のようなもの」だったはずなのに。

「思い思いに好きな動き」のシーンを経て最後に完成するのはそこまで使ってきたものを積み上げた「塔」。

本当は痛みを伴って然るべきなのかもしれない、数えきれないほどの『幻肢』があったのかもしれない、そしてそれは本当は痛みだって伴うものだったのかもしれない。


もちろん作品というものは様々な角度と見方があるので、上述の見方が正しいわけでは全くないし、自分の見方をひけらかしたいわけでもない。
「でも私はこう見たな」「こいつの言ってることはわからん、こうじゃないのか?」といった風に作品を思い出す時間というのがこの世に増えれば素敵だなと思ったので、覚えているうちに、「書きたいな」と思った時に書かせていただいた。


最後に実際的な思ったことを私信的に二つ。

少し、「ものを崩す」「音を急に止める」など、カットアウト的な演出が多すぎたように思う。演技や主張の性質上、フェードアウトが美しくなるであろう場合がいくつかあったように感じた。もちろん僕が演出家の意図を受け取り切れていない可能性も高いけど。

あと、あしもとの解像度が高い故に思ったことなのだが、「思った以上に演劇だな」という印象が強く、あしもとの根源である(と僕が思っている)「ものと人の関係性」という部分は割と埋没してしまっているように感じた。

ただ、初回の公演で、主宰の樹君が初めての集団制作ということから考えるとひとまずは何よりも「やりたいシーン」を詰め込んできたのだと思う。なのでこれはカンパニーの根幹の意義に関わることであるにもかかわらず、それほど大きな問題ではきっとなくて、むしろそれゆえに「次が楽しみだな」とすら思えた。

本当にお疲れ様。


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