MONOLITH

 たとえばバーテンダーのカクテルを作る動き、職人が木を編んでカゴを作る動き、紙の本をゆっくりとめくる動き、そういった動きを、僕はなぜだかわからないがとてもいとおしく感じる。山村佑理と渡邉尚両名のジャグリングにおいて僕が感じるのはその魅力に近い。



 これまで、ジャグリングやサーカスを語る・考える・作る際に根底にあるのは「見せたいもの×見せ方」という公式だったように思う。僕も必ずその公式で作る。何を見せたい・価値の中心におきたいのかを徹底的に考え、その要素を尖らせ、それ以外の要素を気にならないように配置する。


 もちろん、そういった思考プロセスはもちろん経た上で、MONOLITH両名の因数分解はそんなところでは止まらない。その見せたいものがどのように体の内から湧き上がってくるのか?体から湧き上がるとはどういうことなのか?見せるにあたっても、そこにボールがあるとはどういうことなのか?モノと出会うとはどういうことなのか?そういった、無間地獄に近い思考の掘り下げを行い続けた結果、その思考そのものが「見せたいもの」であり、思考するその姿自体が「見せ方」にまで到達している。一部だけを見れば平行のはずだった線が、ひたすらに伸ばして言った結果、交わってしまったのだ。


 先述したバーテンダーの動きや職人の動き。僕はこういった、意思と動きが摺り合いきって繰り返され、不可分な形になったものを、「所作」と呼ぶのだろうという結論に最近達した。その表層だけ見ればなんてことのない動きだが、立ち止まってゆっくりと拾い上げてみると、ミルフィーユのように幾層にも重なった意思・思考が、確かな弾力を持っている。押しこめば手に返ってくるその弾力こそが「所作」の魅力なのだ。


 山村佑理と渡邉尚の両名は、ジャグリングをカッコつきの「ジャグリング」として、行為として行う段階をとうの昔にして、「所作」にまで昇華させた世界でもおそらく類を見ない存在である。



 だからこそ、僕たちは決して、MONOLITHで提示される彼らの作品を、トリックという単位で分解して見てはいけない。見終わった後に、ゆっくりとコーヒーでも飲みながら、落ち着いてまず作品全体を思い起こし、その作品に至るまで彼らはどのように思考したのかを想像してみる。気に入らない部分があったとしたら、自分ならどうしたのかを考える。そして、どうして自分ならそうすると思うのかを自分に問いただす。そうやって、彼らの作品を通じて、自分の歴史を掘り起こす。



 渡邉尚の「逆さの樹」に出会ったとき、僕自身、同じジャグリングを扱うものとしての自分の考えの浅さに絶望した。一見すると、これまでのジャグリングのいわゆる「ルーティン」にまったく当てはまらなさそうな配列。今までまったく自分がしてこなかったモノの捉え方。それらに対する思考が、演技時間の短い間に次々に進化していき、ただひたすら「そんなやり方があったのか!」という衝撃を受け続け、最後にしっかりと視界が開けるような結論が用意されていた。一体どうしてこの人はこんなことになったのか。そう思わせるのには過剰すぎるほどの引力と論理があった。


 本人から「俺が思う『これがジャグリングだ』というものを作ったから見にきてほしい」という宣言を受けて見に行ったのだが、確かに、まったく新しく、だが誰でも知っているはずのジャグリングの最も原始的な面白さが渡邉尚として形を持ってそこに立っていた。演技後一緒に見ていたMONOLITHプロデューサーの安田氏に、「あぁ、これ・・・、ジャグリングですね」と搾り出すのが精一杯だった。具体的な部分は是非MONOLITHで目撃してほしい。



 そして、その絶望を植え付けられた僕は、渡邉尚になんとか対抗しうるだけの理論と思考、自分のバックグラウンドを探さざるを得なかった。その苦しい戦いは今も続いている。このことのなんと幸せなことか。ただのトリック競争ではない、自分のさらに深い部分を見つめなおす機会を提供する。しかもそれを、作品というしっかりと整理されたパッケージによって。こんなにも深く精神を掘り起こさせるものが出てくるまでにジャグリングは進んだのだ。



 MONOLITHは山村佑理と渡邉尚の弾力を改めて確認し、僕たちが僕たちの次の生き方を掘り起こすための、僕たち自身の戦いになるのだろうと強く感じている。

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