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杜甫の観察眼

杜甫は傾きつつある家の運命の中では自らの未来がないと考え、行動を起こしました。

南の地に行き、日本にも行こうと考えたようですが、それは叶いませんでした。
その後は、科挙にチャレンジしましたが、不合格となってしまいました。

24歳になり、旅に出ます。
山東、山西、河北などを放浪し、李白らとも交流がありました。

この頃は自由に楽しんでいた時期だったのですが、作品にはまだ芽が出たとは言えない状況でした。

35歳くらいから杜甫は長安で暮らし始めました。
とはいえ、自分の志は何かということで悩み続けます。

そんな悩みの中で、貧しさにも苦しみながら、社会を観察する目を養ったのです。
杜甫の作風が変わってきたのはちょうどこの頃でした。

そして、玄宗皇帝にできを認められるようになりました。
とはいえ、成功できるほどの見込みはなく、せいぜい御用係レベルの仕事にしかあり付けなさそうでした。
44歳の時には雲南の役人に抜擢されるものの遠いのが嫌という理由で断ってしまいますし、貧しい状態が続きます。
食べていくのがやっとという状態が続き、預けていた自分の子まで餓死させてしまったのです。
しかし、この貧困は、杜甫の社会に対する観察眼、さらには詩の感情を磨くことになったのです。

良い作品の数々の裏には様々な歴史があります。
華々しく見えても実はそうではない、そんなことも多いです。
観察眼が詩を生み出した力ですが、見えない世界の力を磨くと観察眼は鋭くなります。
物事をきちんと見ていきたいという方はぜひ一緒に頑張りましょう。


これからも良い記事を書いていきます。