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世界中で困っているのが私だけなら

その困りごとには対応しなくていいのだろうか?


LGBTについて『過激な「運動」に気を付けよう!』
とチラシを配って注意換気をしている団体があったそうだ。
もしこのドがつくような田舎である私の住むエリアで、困りごとの当事者が私たった一人だとしたら、それは対応しなくてもいいことで、いないのとほぼ同じにしておいていいことなのだろうか
困っている人がいるということは教育はしなくてもいいことになるのだろうか。


地方におけるLGBTのあり方について、私が一番感じるのは「いないことにされる恐怖」だ。もちろんこれは、地方だからという状況には限らないのかもしれない。


多数決はベストなのか

私は子どもの頃から、多数決というやつが嫌いだった。少数派の意見はないことにされる。もちろん、そうでないこともあるが。

何かにつけて少数派となってしまう私は、「議論をややこしくさせている」とか、「あいつは多数決で決まったことに反対している」と思われているんじゃないかとか、「また始まった(呆れ)」とか、とにかく迫害される恐怖を感じている。自分では当たり前として導き出された考えが人と違う。だからといって何も主張しなければ、私という存在自体、始めから存在しないとして世の中はつつがないように回っていってしまう。

余計なことを言うなと口をつぐませる社会がどうなるかと言えば、恐らく、脆い社会になると思う。
うまくいっている時や、始まったばかりの時はいい。でも、考えてみてほしい。例えば広い土地を畑にしたとして、全員が同じ作物を植える。みんなで同じ時季に同じ作業をして同じ時季に収穫をして過ごすとする。それを自分たちの食糧にするのでもいいし、売り物にするのでもいい、年貢でもいい。たくさん採れる時はきっといい。より効率のいい方法もきっと分かってきて、段取りがよくなる。でも、もし何かネガティブな影響を与える外的要因があったらーー例えば、病気が流行ってしまったり、日照りが続いてしまったり、雨ばかり降ってしまったら?それに、全く同じ条件で耕作しているつもりでも実はみんなちょっとずつ違っていて。日当たり、風向き、地面の中の状態、それに畑を管理する人それぞれの状況。表面的には同じに見えていてもみんな何かした違いはある。
そこに焦点を当てることを嫌がってしまった時、その畑とそこで作物を育てる人たちはどうなってしまうだろうか。


多数決の原理と少数派の権利

これはアメリカ国務省の出版物から。「民主主義 多数決」で検索したら一番に出てきた。

民主主義の原則 – 多数決の原理と少数派の権利
少数派集団の意見や価値観の相違をどのように解決するかという課題に、ひとつの決まった答などあり得ない。自由な社会は、寛容、討論、譲歩という民主的過程を通じてのみ、多数決の原理と少数派の権利という一対の柱に基づく合意に達することができる。そういう確信があるのみである。

出典:Bureau of International Information Programs “Principles of Democracy”
*上記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。


解像度を上げていけば、少数派はいつも存在し得る。LGBTについてとりあげることが子どもの教育に悪影響を与えている、例えば「若者の間でLGBTと思い込む割合が急増している!?」という指摘をしたい人もいるようだ。


昔、ある雑誌で憧れの存在だったモデルの相談コーナーがあり、そこに手紙を送ったことがある。そういうものの仕組みがよく分かっていなかった私は、いわゆるペンネームの意味もよく分かっていないままに手紙を出してしまった。なので、まさか掲載されると思っておらず油断していた頃に誌面に私の名前が登場してしまい、同級生に相談がばれてしまったことがある。そこで私が何を相談したかというと、

『同級生(同性)で気になる子がいる。
これは恋愛感情なの?!
伝えた方がいいのかな?!!』


という内容。実際は自分でははっきり自覚があったのだが、なんとなく本物だと認めたくなかった気もするし、苦しかったので理解者がほしくて憧れの存在を頼ったようにも思う。実際、そのモデルA氏は一切否定的な回答はしなかった。だが、「そのくらいの年齢の時は同性への憧れって誰しもあるものだよ」ということを言っていた。続けて「好きって感情は否定しなくていいと思うし、伝えたかったら伝えたらいい。ただ、それを受けて相手がどう判断するかはその人が決めることだから」というようなことも言ってくれた。会ったこともない中学生に対する回答としては冷静で、率直で、親身だと思う。それに、初めて真剣に私の気持ちについて考えてくれたように感じた。クラスメイトにはいわゆる”女子っぽい男子”もいて「△△はそういうやつ」といじめもなかったし、周りも「お前〇〇(片思い相手)のこと好きなの?」とナチュラルでストレートなことを言う人もいたので友人らは「あいつ、〇〇を好きなんだって~。でも〇〇はそんなに好きじゃなさそう~」といじめるわけでもなく、大して興味もなさそうなものだった。みんな自分のことで精いっぱいな年頃だし、私はあまり人とつるんで流されるタイプでもなかったのでそんなもので済んだのだ。そんな環境だったので、真剣に言及してくれることが嬉しくて、でも雑誌に載ったことで友人〇〇には「キモイ。普通にして」と言われてしまったので距離を置くことにしたのだが、憧れのA氏にはいつかどこかで出会うことがあったらお礼を言おうと思って今日まで生きている。(友人だった〇〇には嫌な思いをさせたかなといまだに申し訳なく思うことがある。が、考えるのも迷惑かとなるべく考えることも控えてきた。)


私の場合は思い込みではなく、早々に確信があった。でもどこかで誰かに、「それは思い込みだよ、普通になれる可能性もあるよ」と言われたがってる節があるように思う。長らく普通コンプレックスには苦しめられてきた。みんなが感じられるものを当たり前に感じられず、誰からも賛同してもらえない感情が湧き続ける。学生時代はとにかくこれが苦しかった。

若者が自分をLGBTだと思い込むという論点に戻ろう。誰かの存在が気になる、好きかもしれないと感じる。この構成要素には、「私もこうなりたい」という願望(行き過ぎると自他の境があいまいになる)をはらんだ憧れや「存在を認識すると興奮してしまう」という本能的な欲求(行き過ぎると支配欲求)などがあるように思う。これらは精神が発達する上で他者との比較が避けられないことを考えれば多くの人が通る好意の内訳として妥当だ。人間関係を模索しながら構築する中で、いきすぎると嫌な思いをさせると学んだり、伝えないと伝わらないと勇気を出すタイミングや挫折からの立ち直り方を学んでいく。若者がたとえ自分をLGBTだと「思い込んで」もそれを否定する必要はなく身を持って学ぶ機会だし、自分なりの人間関係の築き方を知っていけばいいだけだ。その感情を否定する必要はない。


少子化だからこそ向き合う

子を産み育てにくいことが少子化対策への視点に足りていないという指摘はよく見かけられるが、そういう世の中はきっと、生まれてきてくれた数少ない子ども自身も息苦しいのではないだろうか。大人が自分たちに勝手な都合で感情をぶつけまくる。想像しただけでうんざりしてしまう。
本当は、子どもの声をよく聞くことこそが必要だと多くの人に知ってほしい。今回でいえばLGBTのような少数派が存在することを否定してしまっては、今いる子どもたちの中にいる当事者や当事者を否定的に感じない子の心までも否定していることにはならないだろうか

もし本当に子どもたちへの愛があるなら、一人ひとりのありのままの心を受けとめることをどうか考えてほしい。受けとめてこそ、やっと信頼関係が始まる。親との人間関係は、社会で自信を持って人と関わっていく土台になる。だからまず、子どものどんな心も否定しないで受けとめてほしい。


私自身も、若い世代の心を否定せずに関わることのできる大人として日々気をつかいたいなと改めて考えることになりました。

このチラシの件はかなりショックでしたが、今まで生きてきて、ショック慣れをして自分の糧にできるまでになれました。なんとか生きることを選び続けられたからこそ。頑張ってきて少しは成果になっていると感じます。




最後まで読んでくれてどうもありがとうございます。


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