接客サービスの質

 スーパーマーケットにはサービスコーナー(サービスカウンター)というものがある。
 小売流通業の底辺労働に勤しむわたしは、このコーナーでのやり取りを表からも裏からも見ることができて、面白い。老人たちの苦情には横で聞いていても呆れることが多い。「早く死ねよ」と思われても仕方ないなと思う。バカにしているのかと怒鳴り出したりする。そりゃそうだ。若い人が年寄りを尊敬しているはずがない。
 
 こういう年寄りをどう扱うかが接客サービスの技術だ。サービスのテクニシャンは、ボケ老人でもチンピラでも、まったく、上手に「あしらう」ことができる。
 心の中で拍手している。
 けれども、それは接客サービスの質ではないなとわたしなどは感じてしまう。

 接客サービスの質は、最終的には人柄にかかっている。つまり、或る個人の誠実さが、接客サービスの商材とされるとき、サービスの質が整うわけだ。
 こういう現実には、諸念わきあがるものがあるが、是非もない。
 
 個人の人柄(誠実さ)と切り離して、技術として接客サービスを体系づけることは、古くは「礼」として中華で行われた。そうでもしないと誰も得のできない騙し合いにあけくれるばかりだったからだろう。

 礼儀をわきまえていても「失礼」な人がいる。
 慇懃無礼という言葉もある。
 店員はお客を尊重することになっているが、それが形だけ口だけマニュアルに従っているだけの人に対しては、多少嗅覚の鋭い人は「失礼」を嗅ぎ取る。

 日本人には、そういう嗅覚があるので、まだ、口だけで笑って言葉を飾れば相手を騙せる社会では無い。だから、西洋人のようにマスクで口を覆われると「コミュニケーションできない」と騒ぐことも無かった。
 (もちろん、「マスクで顔を覆っていると何を考えているかわからない」と本気で思っている日本人もいて、たぶん、だんだん日本人もそういう人が多数派になるのだろう)

 接客サービスの質の根っこが人柄(誠実)から切り離された時、西洋人や中華風の巧言令色が接客サービスの質と取って代わる。

 子曰、巧言令色鮮矣仁
 
 巧言令色に仁が無いわけではない。
 けれども、仁の器としては浅すぎると孔子は考えたようだ。

 孔子には会ったことがないが、どうも、知識人のイメージを裏切るような、けっこう朴直な人柄なのかもしれない。
 

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