ストリッパーは母親になれるのか

 わたしは幼少の頃、自分が女性かもしれないと思っていた頃、あこがれの職業はストリッパーだった。



 
 女性は、若く美しい肉体(女性の場合、顔も肉体に含まれる)を持っていれば、人間存在として不足するものが無いように見えた。
 ほんの少し肉体を露出しても、若く美しい女性は、他の誰よりも、確固たる存在の輪郭を持つ。

 存在しているということは、「見られている」ということである。

 誰も見ていなければ、誰もいない。
 存在するには、「見られる」必要がある。



 
 わたしたちは鏡を使って自己の存在を確認する。
 自分で自分を「見る」、
 そして、自分によって「見られる」自分が、「私」である。
 つまり、いわゆる自意識が生じる。

 女性は、自分の身体にくびれや、乳房や、お尻の張りが生じてくると、
風呂上りごとに、それらを鏡の中に確認して、
自己の輪郭を、念入りに意識に取り入れて「自己像」を構築する。

 七つ年上の姉が、たぶん、まだ何も考えていないと姉に思われていた私の前で、そうしていた。

 小学生のやることだと思って甘く見てはいけない。
 このときにつくりあげていく「自己像」にしたがって、将来、その少女が、どれくらい露出的な服装をするかが、決まるのである。




 若く美しい肉体を持った女性は、鏡だけでなく他者の目も使うことができる。
 そうすることができる女性の、自己の存在感は(わたしには想像するしかないが)めくるめくものであると思う。
 
 ストリッパーたちの笑みをふくんで決して疑念に曇ることのない自信と自足に満ちた表情は、
自分に関して何も足らないものが無い」という、
古来、求道者たちが求めた統合の心境に達した人のそれに見えた。



 人間は、実際のところ、常に「自分に関して、何かが足りない」と感じている。それが、まさに人間の存在であると言っていいくらいだ。

 人間以外の動物に、このような「自分に関して、何かが足りない」という感じは無いだろうと思う。
 そう思う理由は、人間だけが、他者に与えることによって満足を得るからだ。

 わたしたちは、
自分の存在(=実存)の根底に空虚感があり
それを埋めるために、他者に与える

 「与えよ、さらば、与えられん」ということだ。

 アドラー心理学のいう「人間の幸福の三条件」。
①自分が好き
②他人は信用できる
③わたしは貢献できる

 わたしは、以前、①と②が満たせても、③が無いと人間が幸福になれないと書いた。

 それは次の理由による。
 すなわち、
他者(他者の集合である社会)に対して何かを与え
与えることで自分が役に立っているという実感がない限り、
人間は自分の存在の底にある空虚を埋められない。

 娯楽や酒やセックスなどでは、埋まらないのだ。


 さて、若く美しい肉体を持った女性は、
このアドラー心理学の幸福の条件の③を、キャンセルできる

 ストリッパー、さらにこれを概念として広げて
「若く美しい肉体によってadvantageを獲得できる女性」とすれば、
芸術絵画や芸術写真のヌードモデルなども含めることができる。

 こういう女性たちを極点として、そこから遠ざかっていくけれど、
多少とも、社会生活の中で、肉体を露出(お臍を見せる、乳房の谷間、太腿や二の腕を出すなど)する服装を選んでいる女性は、
このアドラー心理学の幸福の条件の③を、極点に近づくほど、その近づいた分だけ深甚にキャンセルできる。

 与えることなく、自己の存在は満たすという裏道が、若く美しい肉体を持つ女性には、開かれているのだ。

 だから、若く美しい肉体を持つ女性は、あらゆる機会を逃さず、露出的(男性の性欲を刺激する)であることを選ぶのだ。


 男性の場合、自分の肉体だけで、③を無効にすることは難しい。

 谷崎潤一郎の『金色の死』では、かろうじて、ひとつの抜け道が提示されている。
 それにしても、男性の場合、自己の客体化、「完全に見られる存在」となって「見ること=観察し思考すること」から免れた瞬間、そのときに死ななければ、たちまち、平凡な主体的自己、つまりは、どこにでもいる、誰にもかえりみられない人間に戻るのである。


 人がはっとして視線を投げるのは、やはり、そこに女の肉体があるときだ。
 視線を集めた女の肉体は、「与えること」から(つまり幸福の条件の③から)免れて、完全な客体と化している。

 視線を引き寄せる客体によって商売をすることを
「性の商材として消費されている」
と批判してみても、客体化している当の女性たちに、なにか客体化に対する疑念を与えることができるだろうか?


 実際、性の商品化だ。
 水着を着てお金を取るのは、裸になって行う売春と同様、「セックスワーク」以外のなにものでないとわたしも思うが、グラドルや女優にとっては「それが何か?」という話だ。

 水着になって(つまりはぎりぎりまでに身体を露出して)、群がる男性たちに写真を撮られている女性は、若くもなく美しくもなく、男の前に水着姿をさらすこともできない同性たちから、「身体を売っている」と言われたところで、痛くも痒くもないだろう。

 残酷な事実を述べれば、水着姿の若く美しい女性を撮影しようと思って集まっている男性たちも、もし、水着撮影は性の商品化だと嘆く女性議員たちがマイクロビキニなどの姿で抗議のプラカードなどを持って現れたら、命からがら、クモの子を散らすように逃げていくだろう。


 グラドルなどの女性たちは、自足している。
 年をとって裸になれなくなったら、「性搾取された」「いやでたまらなかった」
と言い出すかもしれないが、今は、楽しく、幸福なはずだ。

 自分の存在以外に何も必要がない、それは、人間にとって、完全な幸福であるからだ。

 そして、そういう幸福は、ふつう、人間の幸福としては実現不可能である。

 利己的な人は、自覚が無くても、不幸なのである。
 少なくとも、幸福ではない。

 人間は、幸福を求めるかぎり、他者に貢献することから免れることができない。



 自分の若く美しい肉体によって、人生の初期に完全な幸福を味わった女性が、自分の子供を産み、子供を育てる母となることができるのだろうか?

 母とは、客体化される女性の肉体から新しい生命を産みだすことで、主体性をとりもどす企てである。
 逆説的な、ほとんど軽業的な企てだが、母は自己を捨てて子育てに従事することで、主体化する。

 自己を捨てて与えることで、自己は完全によみがえる。
 そのときの自己は、もはや死をもこえて存在している。

 小部屋の中に手榴弾が投げ込まれたとき、一人の人が他の人々を救うために、手榴弾のうえに腹ばいになったとしたら、その人の死も、その後に流れる長い時間も、その人の存在をみじんもわたしたちの心から色褪せさせることはできない。


 女性は、母となったことで、新しい角度から他者の視線を取り戻し、存在の根底にある空虚を埋めることができる。

 わたしたちは、人間として、社会的な成功を果たしたどんなエライ女性よりも、
自分の母親を、女性として、
そして母親一般から抽出された「母性」なるものを、女性の属性として、
それぞれを深く敬愛するのである。


 このような人間存在を回復するための複雑な企てである「母親になる道」を進む女性には、たぶん、若い頃に、プロのストリッパーになれるほどの性的魅力に満ち溢れた肉体を持っている人は少ないと思う。

 若く美しいときに味わった存在の完璧な充実感を忘れることは、難しいだろう。
 四十や五十になって「妖艶なビキニ姿」などを披露する女優たちを見ていると、いったん美酒に酔いしれた人の苦悩を感じる。


 
 

 

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