揺るぎない自己評価

 普通に考へると、失敗をしたり恥をかいたりすると、自己評価は下がるはずだが、それでも根本的な自己評価が傷つかない人がゐる。

 傲慢な人にはそんな感じ、つまりは鉄面皮といった感じの人がゐるが、わたしは傲慢な人は根本的な自己評価は低いと思ふ。
 なぜなら、傲慢とは、過剰に攻撃的な態度だからだ。
 過剰な攻撃は、自分より強い何かから自分を守るために行ふ。傲慢になるのは、何か自分より強く危険な人やものごとに脅えてゐる人の態度だ。

 防御としての過剰な攻撃を必要としないとしたら、その人に、
何があっても揺るがない肯定的な自己評価があることになる。

 防御としての過剰な攻撃を必要としない人のキャラクターは温和なものになるだらう。傲慢にはなりようがないし、自分に人と異なる価値があることを示すための、人と違ったふるまひやよそおひ、にも関心が向かないはずだからだ。特にめだったところのない、平凡ともいふべき人となり、になるのではないかと思ふ。
 つまり、「普通の人」だ。

 社会の評価は結果がすべてだから、普通であることは、社会的には目につかないことが多いだらう。透明な存在、といふやつである。


 自己評価は生き方に直接影響する。
 自己評価が低いと、「劣等感をばねにして頑張る」こともある。

 劣等感がある人は、劣等感をぬぐひたい。自分の背丈ですんなり手の届くところにあるものを手にしても劣等感をぬぐへないから、普通の人の手が届かないところにあるものを目指して、ジャンプする。ジャンプする。ジャンプする。

 その場合、その人に何か人並み以上のジャンプ力があれば、本人の満足できる結果、つまりは社会的な評価を得られる何かを生み出すことができるだらう。
 低かった自己評価は上がり、満足できるだらう。
 

 問題は、劣等感があっても人並み以上の能力が無い場合だ。
 劣等感を克服しようとして何をやっても、社会的な評価を目指す限り、その人は「私は失敗ばかり繰り返してゐる」と感じるかもしれない。

 少し話が逸れるが、次のことにも触れておきたい。
 何があっても揺るがない肯定的な自己評価があれば、人並み以上の能力があって社会的な評価をもらへる結果を出したとしても、自己評価にはそれ以上積み重ねるものがないので、温和な、いわゆるたかぶらない人柄は続くと予想される。
 対照的なのは、わたしの頭に浮かぶのはボクサーのモハメド・アリだ。自分の強さを、今殴り倒した相手に向かって誇示してゐる有名な写真がある。これを、彼を崇拝する人たちは、自室やジムの壁に貼ってゐる。
 わたしはあの写真は嫌ひだ。モハメド・アリは兵役を拒否したといふ。人種差別の国アメリカの行った侵略戦争への参加を拒否したといふことで、いい話になってゐるのだらうが、わたしは改宗したり名前を変えたりしないで兵士として戦った無名の人々のことが頭をよぎる。日本の敗戦後、徴兵に応じて、そして、生きて帰った人は死んだ人たちへの鎮魂の気持ちを忘れなかったことも心に浮かぶ。
 ボクシングが強ければ、人格が低劣でも、英雄として賛美されるのは妙なことだ。
 敗者を罵るのは、心身の鍛錬のために格闘技を行ふ
だと思ふ。また、人として残忍な行為だと思ふ。
 そこまで残忍になってしまふ人の自己評価は相当に低いと思ふ。
 だからこそ、彼の品格の無い勝利の凱歌は、劣等感のある人の闘志を掻き立てるのだと思ふ。



 不思議だったのは、いはゆる平凡な、普通の人にも何があっても揺るがない肯定的な自己評価を持つ人がゐるといふ事実だ。

 わたしはこの事実を心理カウンセリングをしてゐるときに知った。自己評価を高めたり安定させたりすることは、カウンセリングでは大きな課題となる。だから、自己評価の形成の理論は、カウンセリングには欠かせない。

 わたしの信頼する理論は、愛着理論だ。
 愛着理論によると、人が自己評価を得るのは、まず最初は、生まれたすぐあとでの大人との関係からだ。
 その関係の中で、その大人からの評価を、乳幼児は自己形成中の内的世界に取り込み、自己自身の土台として内在化させる。
 精神分析的な見方では、母親の存在そのものが内在化する。つまりは、人の心がある限り、そこには母親がゐるのだ。
 愛着理論ではもっと科学的な響きのあるシステム化としてゐる。
 安定した愛着関係を通して、何があっても揺るがない肯定的な自己評価が自我構造のシステムそのものになるのだ。このシステムは、生涯、機能する。

 先にも述べたやうに何があっても肯定的な自己評価が揺るがない人つまり愛着関係の安定した人は平凡で普通で、目立たない。だから、ゐてもゐるとは気づきにくいが、ゐる。
 わたしの意見としては、日本にはかういふ平凡なる人、
とりたてて自己を主張したり
自分でないと気がすまないといふ思ひにかられていたり
していない人が多い(少なくとも多かった)。

他人との同じ格好をして同じことをして同じことを言ってゐて、さうして自分が目立たなくなっても、気にしない人たちだ。
 だから、偉人、わたしの思ふところの日本的な偉い人がよく出て来る国だったと思ふ。

 ここからはわたしの偏見とも言へる意見だが、人に対して何があっても揺るがない肯定的な自己評価を与える大人は、母親だと思ふ。

 養育者といふ言い換へは、この母親の役目を女性が嫌ひ始めたことに対する配慮だと思ふ。赤ん坊を抱いてゐれば男性にもオキシトシンが出る。その男性が母親でもいいではないかといふことになってきた。

 オキシトシンは爺さんが赤ん坊を抱いてゐても出る。けれども、それで爺さんが母親になれるわけではない。
 母親は女性なのだ。
 男性の身体は戦ふために筋骨が発達してゐる。女性の身体は赤ん坊がお乳を飲むための乳房が胸に二つある。赤ん坊を抱くと安定するやうに、あるいは赤ん坊がしがみつくと心地よいやうに、脂肪の多い・柔らかく・甘い香りのする身体になってゐる。
 この女性の、出産と育児に適した身体的特徴に、性欲を引き起こされるやうに男性の脳はプログラムされてゐる。

 他者を愛することは女性にしかできない。これは、女性が出産し授乳するから、備わった機能なのかもしれない。男性は他者を愛する能力は無い。男性にできるのは、観念(大義、正義、主義主張など)に殉ずることだけだ。

 女性だから、子供といふ他者に、何があっても揺るがない肯定的な自己評価を与へることができる。この自己評価は、とりもなおさず、愛されたといふ実感から生まれる。
 その実感は身体感覚を基盤にしてゐる

 女性の乳房、脂肪をはらむ肌の匂ひ、温かさ、女性の声、女性の語り掛け、女性の愛撫、女性の抱擁、女性、女性、女性・・・、それらに触れることが「愛されてゐる」といふ確信には必要なのだ。

 人間には、母親が必要だ。そして、母親は女性だ。

 これが、もはや偏見もとほりこして、妄想ともいふべき、わたしの見解だ。
 


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