恋愛と生きづらさ


この記事を書いたともゆきさんがコメント欄で書いていることを引用したくて記事を引用させていただきした。

私も女の子との待ち合わせで駅の伝言板を使っていた世代です。
今思えばなんと不便だと感じますが、それは今の時代に携帯が当たり前にあるからであり、当時は不便さは感じませんでした。

電話ボックスに並んだ際、自分の並んだ場所がまわりよりも進みが遅い時に感じたあのイライラも、今となっては良い思い出です。

あの頃の『会えるかどうか分からないドキドキ感』は、今となっては味わう事の出来ない楽しみのひとつですね。

 わたしは、これを読んでしばらく、感慨にふけってゐました。
 
会えるかどうか分からない
今となっては味わう事の出来ない楽しみ

 恋愛といふのは、夫婦や親子などの愛情関係を主食のご飯みたいなものだとすると、お菓子とかお酒とかコーヒーとかいった嗜好品に相当すると思ひます。
 恋愛とは、
①日常には無い刺激
②によって引き起こされる快楽、楽しみです。

 だから、男性の場合はまずは性的な刺激から恋愛をするだらうし、女性なら不倫や親友の彼氏を奪ふといった略奪愛によって恋愛を体験するでせう。
 たいていの女性は主食として一生つづく愛情関係を求めてゐるので、恋愛をする男性とは求めるものが違ってゐて、かなりのすれ違ひがあると思ひます。
 さういうときは、結婚が恋愛の墓場となる。
 まだ生きてゐるのに墓場暮らしとなった女性としては、「夫がゐてもゐなくても、若くても若くなくても、私はひとりの女として、いつも恋をしてゐたい」と思ふのは無理もない。

 とにかく、恋愛を成立させるには、日常には無い刺激が必要。
 だから、出会ひのときの衝撃が恋愛を生む。
 婚外セックスや二股恋愛などに対する、さまざまな禁忌が恋愛を生む。

 そのことを見抜いて、三島由紀夫氏はいろいろな恋愛小説を書いてゐます。そして、恋愛と非日常的な刺激との関係について、はっきりと語ってゐるのが、自決の一週間前に受けたインタビューです。 

古林:三島さんの作品でね、ひとはあんまり話題にしないのだけれども、ぼくは「若人よ蘇れ」がね、好きなんです。好きである理由は、三島さんの原体験とね、結びついた三島美学があそこにはある。他の作品にないようなものが出てきている。三島さんがあの作品で不用意に現した素顔かも知れないという気がしてるんですがね。

三島:ただね、あの芝居どころの一番のモチーフはね、恋人同士がこういうことでしたね。今までわたしたちはね、明後日どこどこの公園で会いましょうって言う時ね、それは分からなかった。どっちかが空襲で死ぬかも知れない。その公園がなくなっているかも知れなかった。それだから、わたしたちの恋愛って成就してたんだ。今からはね、戦争が済んだ。明後日、日比谷映画で会いましょう、ってちゃんと映画やってるの分かってる、もう恋愛はない、あそこですよ、書きたかったことは。会えるか会えないかってこと

 インタビュアーの文芸評論家は、なんとか三島氏の揚げ足をとらうとやっきになってゐるので、

三島さんがあの作品で不用意に現した素顔かも知れないという気がしてるんですがね。

といふことを言って、三島氏が「俺のことを見抜いたな」と驚くのを期待したらしいです。なんで三島由紀夫氏を嫌ふ人は、素顔とかなんとか穿ったことを言ひたがるんでせうね。
 これに対して、文芸評論家の「慧眼」をあっさり無視して、
あそこですよ、書きたかったことは
と、三島氏が答へたのは次のことでした。

どっちかが空襲で死ぬかも知れない。
その公園がなくなっているかも知れなかった。
それだから、わたしたちの恋愛って成就してたんだ。

今からはね、戦争が済んだ。

明後日、日比谷映画で会いましょう、ってちゃんと映画やってるの分かってる、
もう恋愛はない。

 わたしは、今の時代、真の恋愛は、未成年の少年少女と成人との間でしか成り立たないだらうと思ってゐます。

 三島由紀夫氏が、
もう恋愛はない。
と断じたとほり、戦争が終はってから流行した自由恋愛は、男性の側としてはセックスといふ楽しみであり、女性の側としては自分で結婚相手を選ぶ手段であったのだらうと思ひます。

 欧米人の恋愛が、熱烈で饒舌で人前でも抱擁し接吻をするといふ露出的で演技的な形態を取るのは、
嗜好品としての恋愛を「愛」といふ言葉にくるんで、貪欲に求め続けてゐるからだと思ひます。欧米人の場合、実存的な理由といふより、たんに、快楽に対する貪欲さから来ているやうな気がします。そして、貪欲さの源は肉体なものかもしれません。


 最近、不倫を暴露された女優さんがゐましたが、ラブレターをマスコミに売られてしまひ、わたしたちは「けしからん」とか言ひながら、他人の色恋をおかずにして下卑た空想を大いに楽しむことができました。
 女優でありながら不倫をすると、かういふ事態になるかもしれない。その危険を冒してまでやれるのは、それに相応する刺激があるからです。
 刺激を求めるしかない空虚な精神は、ドラッグを求めるし、盗撮を試みるし、ロリコンやエスエムなどのあの手この手の変態セックスを求めるし、そして、何より、恋愛を求めます。
 生きてゐるかぎり、いろんな人と、ずっと恋をしてゐたい

 あの女優ほど勇気もないし、あの女優ほど、心の穴が大きくないわたしたちは、恋愛映画やAVやBLノベルなどで、「いろんな人と次々と、ずっと恋をしてゐたい私」といふ、穴の空いた実存を慰めてゐます。
 主食では満足できず、ケーキのバカ食ひで腹を膨らませるか、大量の飲酒で酔はないことには寝られないといふ・満たされることの無い底なしの・他者による自己承認欲求を持つ・精神的過食症の実存。

 ここで、やっと引用記事のことに辿り着きます。
あの頃の『会えるかどうか分からないドキドキ感』
といふともゆきさんの言葉と
会えるか会えないかってこと
といふ三島由紀夫氏の恋愛観が、わたしの中で、響き合ったのです。

女の子との待ち合わせで駅の伝言板を使っていた世代です。
今思えばなんと不便だと感じますが、それは今の時代に携帯が当たり前にあるからであり、当時は不便さは感じませんでした。


 コメント欄にともゆきさんが書いたことを読んで、次のやうに思ひました。
 すなはち、生まれた時から携帯電話のある世代、そして、スマホ無しで生きていけないわたしたち老人も含めて、今の社会、恋愛はますます困難になってゐるのだなと思ひました。

 蛇口をひねれば水が出て来る生活のありがたさは、地震などで断水生活を何日も送らないことには実感できない。
 だから、今の便利さは失ってみないとわからず、しかも、そんな便利さは、特に敗戦後の経済成長期から、ほとんど正気を失ったやうに増大して重なって、私たちの実存は、もはや、その堆積の下で、薄っぺらい紙のやうにフラットになってゐます。

 最近の若者は、あんまり恋愛をしなくなってきてゐるといふ話も聞きます。性体験の無い男女もじわじわであるが増えてきてゐるといふ話もあって、それはわたしとしてはreasonable(言動が・道理にかなった、筋の通った、もっともな、無理のない、まあまあの)だと感じます。

 いまさら、恋やセックスに、出口を求めても、それは絵に描かれたどこでもドアに過ぎず、鼻をぶつけて痛い思ひをするだけ。
 自由な個人として共同体から切り離された生きづらさは、微動だにしない。

 カシコイ若者たちは、わざわざ鼻血を流さずとも、そのことがわかるのだらうと思ひます。


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