旧い母親像と新しい養育者像

猫保護活動してゐる方から動画付きの連絡がありました。
嵐みたいな雨風が吹き荒れた夜の後、或る人の家の庭に猫が棲みついたとのこと。
三匹の子猫と母猫。

庭から出ていかず、その家の人が定期的に置くご飯も食べるやうになったので、いずれは捕獲して、飼ひ主さんを募集する予定ださうです。

わたしが感動したのは、その動画。

いつも三匹の子猫がお皿のご飯を食べる。
それを母親の猫が見守る。
そして、三匹の猫が満腹になって毛づくろいを始めたときに、まだお皿にご飯が残ってゐたら、自分もお皿に近づき、残りを食べる。

お母さんは残り物を食べてた、といふのは、今の年寄りなら覚えがある光景かも。

今の時代、誰にも評価されないところで子供たちの世話をするのが母親といふものなら、母親になるのを嫌がる女性がゐても、無理ないなと思ひます。

母親といふことに、わたしはとてもこだはりがあります。
自分の母親(人間の母親)に不満だったからだと思ひます。

カウンセラー時代に、母親神話は厚生労働省も公式にこれを否定してゐるんだといふことをわたしに教へてくれる同僚がよくゐました。当時のわたしはジョン・ボウルビィの愛着理論にハマってゐて、乳幼児期の母子関係は、自己形成にとって決定的な要因となると思ってゐたし、人にも言ったし、その理論をもとにカウンセリングもしてゐたからです。


そして、事例研究の時に、
母親になる一番の方法は女性に生れることだ
といふハリー・ハーロウの言葉も口にしてしまひ、フェミニスト・カウンセラーたちに発表の後、ロビーで取り囲まれたりしてゐた頃です。
あの頃は(今もかな?)ボウルビィとかハーロウは女の敵だった。


これからは、母親といってもひとりの人間。
これまでの慣例に従って自己犠牲する必要は無い。
子供の要求はそれとして、自分の人間としての、女としての要求も大切にして生きるべきだ。
妊娠したからといって、人間であること、女であることを捨てる必要などないし、子供も、自分の「養育者」が人間として女として自分と向き合ってくれてゐることによって、自分を大切にしながら相手も尊重できる人間に育つことができる。

そのための第一歩は、妊娠したとき、その子供を産むかどうかは、子供ではなく、人間であり女である自分が決める権利があるといふことを知ること。
女は母親になるために生れてきたのではない、性別以前に人間として生れたのだから。

・・・てなことは、言葉では言へます。

でも、母親といふ本能(は無いことになってますが)に憑りつかれて乳幼児を育てる女性でないと、人間の自己はうまく「私」になれない。
といふのが、わたしの信じるところです。

うまく「私」になれた人とは、軽い言葉で言へば、
自己肯定感がある人のことです。
欠点もあり悪いこともしてしまふ自分だが自分を憎んではゐない。
さういふ人だけが、欠点もあり時には間違ったこともする他者たちの存在を肯定できます。

そんな人たちを生み出すために、
ヒトには愛着形成の場としての母子関係
がある。

これはわたしの個人的な所信なんで、事実かどうかはわかりません。



ただ、心を病んだり、生きづらさを感じたりしてゐる人の中に、少なからず、愛着の形成に問題があったと思へる人たちがゐます。
これも、さういふ風に、わたしに思へるだけかもしれません。

女性が母親であることから逃れられないとしたら、せめて男性にもその役割を分担させたくもなるのも、また、無理もないと感じます。
人間であることから母親へと転落させようとする乳幼児との戦ひを、これからの女性はまぬがれませんから、男性の応援も欠かせません。
イクメンといふことが始まりました。

いろんな作戦や支援を受けながら、人間であること女であることを侵食する「母親といふ本能」と戦ふ。

「母性本能とは神話だ」としようとする女たちの心の動きは、乳幼児にすべて伝はるといふのがわたしの所信です。

乳幼児は、自分だけに、無条件で、関心を注いでほしくて、自分を生んだ女性を人間といふ台座から「母親」といふ哺乳動物の地べたに引きずり降らそうとする。

たぶん、すでに何十年か前から、女性と、その女性が産んだ子供との戦ひは始まってゐるのだと思ひます。


なんで愛着なんてものがあるのか?
それは、人間はこの苦渋に満ちた世界に生み出されたとき、ただ独りだけ、或る女性が無条件で自分の存在を受け入れてくれるといふ体験が必要だからだと思ひます。

この体験を自己の根底に置くことで、「私」の存在の穴が埋まります。「私」の中に意味が入っても、それが抜け落ちてしまふ穴が塞がれたのです。

愛着形成によって、人間は、「私」といふ存在の穴を埋めなければ、知性の肥大して宇宙の虚無に気づいてしまふ脳を持ちながらも、この世界を自殺もしないで生きていくこと、それは不可能だとわたしには思へます。

うまくいかうといくまいと、人として生まれたしまふと、愛着形成の体験はまぬがれられない。
実際、愛着形成の型には、なんとかうまくいったものから、やっちまったなあと思ふものまで、少なくとも四種類はあると観察されてゐます。

さういふ自己形成に必須の体験を与へることは、さうしようと思ってはできないことです。
教育なんかとはまったく違ふ。
情動調律と呼ばれることは、母親ならやってゐるのだけど、意識してできるものではない。

だから、本能がそれを設へてゐる。

出産後、母性的没頭と名づけられた、ごく短い期間があるとして、ウィニコットといふ精神分析医は、これを一種の発狂状態だとしてゐます。
人間としてはおかしくなってゐるといふわけです。

まともな人間なら、母親みたいなことはしない。自分の好きなものは好きなものとして、食べたいし、楽しみたいし、疲れたら休みたい。
母親といふのは、近代人なら持ってゐるはずの、
主体性のある個人
を失ってゐる。
子供のために生きてゐる。
他人のために生きるなんて、近代人として、人間として、最もダメな生き方です。

さうなってしまふのは、本能のせいだとわたしは思ひます。

猫といふ動物が、自分の食欲も忘れて、子猫の食事を見守るときに憑りつかれてゐる本能と、たぶん、同質なものだとわたしは思ってゐます。

母親になることは、だから、哺乳類の動物に化してしまふことでもある。


あれやこれやと考へると、これからは、母親になりたいと思ふ女性はどんどん減っていくと思ひます。
そして、新しい理屈による「養育者」像を作って、旧い母親といふ概念と入れ替へようと努力するのだらうと思ひます。


付記。
わたしは「母親」は必要だと思ってゐますが、母親が独りで子育てするのは無理だと思ってゐます。

本来、母親の周囲には女性たちが群れ集って、保育の共同体を作ってゐた。人間の子育ては、共同保育が初期値。
だから、赤ん坊を持つ女性のまはりに女性たちが集まって世話をしたり「母親」を支へたりすること、それも、ヒトの「本能」だと思ってゐます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?